ニスを塗って演奏できるようにします。
こんにちは、ガリッポです。
よく企業の不正で「信頼が裏切られた」などと憤慨している様子が見受けられますが、ヴァイオリン業界で働いているとピンとこないですね。
まず商取引において相手を信用してしまうということが考えられないですね。
商取引というのは取るか取られるかの戦いなので相手にすべてを任せたら好き放題やられるだけです。ヨーロッパに住んでいることも関係しているかもしれません。
ヴァイオリン業界では何も信用できません。
先日も他店でチェロを買おうとしている人がチェロを持ってきて「音が気に入ったのだけど値段がどれくらいが見てほしい」という人が来ました。
音が気に入ったのなら何よりですが、だからといって不当な値段で買うことはやめたほうがいいでしょう。
ドボルザークのチェロでした。
同名の作曲家が有名ですから、まずそちらを思い浮かべるかも知れませんが、19世紀から20世紀にかけてチェコのプラハで活躍したヴァイオリン職人の一家です。シュバイツァー、クーリック、シルベストゥルなどそうそうたる職人に教わったというわけですからまともな教育を受けた職人であることは間違いないです。
とはいえ、日本の皆さんにはあまりなじみのない名前かもしれません。いずれも職人から見れば見事な仕事をした一流の職人であることは間違いありません。
戦前のドボルザークのチェロなら500万円はしてもおかしくないでしょう。それでも例のように過小評価と考えていいでしょう。
ドボルザークのヴァイオリンが一つ店にありますが、見た印象では同じチェコでもボヘミアのものとはまったく違います。後の時代のものならパリで修行したということもあってフランスの影響を受けています。しかし、フランスの楽器と見分けがつかないほどそっくりということでもありません。近代~現代のヴァイオリンとして優秀なものです。
ただだからといってそのヴァイオリンの音がすごく良いかと言われれば無名な戦前の楽器と変わりません。楽器を見れば一流の職人のものであることはすぐにわかりますが音だけでは並の職人と差はありません。これは弦楽器というのはそういうものなのです。厚い板の明るい音の楽器で好き嫌いの問題です。私のところでは明るい音を好む人は少数です。
そんなチェロですが、鑑定書もあるというのです。
鑑定書は持参していなかったのでどんなものか見ることはできませんでした。
チェロのほうは私も見ました。
100年前のチェロにしては驚くほど状態の良い楽器ということで大変に気に入っている様子でしたが、私からすれば怪しいということになります。
暗い部屋で紫外線を当てて見るとニスの修復暦がわかります。ニスは紫外線を当てると「蛍光」という現象で光るのです。ニスの材質が違えば違う色に蛍光します。白昼では同じ色に見えても蛍光ではまったく違う色になるので後の時代に補修のために塗られたニスはすぐにわかるのです。
そうやって見ると、一度もニスの補修をしたことがないとわかります。100年前のチェロで一度も補修されていないというのはおかしな話です。傷もなければ修理歴もありません。
ラベルを内視鏡を使って拡大してみると印刷に特有のドットが見えます。本に出ているラベルをコピーした場合、本で写真を印刷したときのドットが見えるわけです。偽造ラベルではないかという疑いがもたれます。年号も下の二桁が手書きでしたが、ボールペンのように見えます。
楽器の内側を覗いてみると接合部にはみ出た接着剤が残っています。
接着剤は白っぽい色をしていていわゆる「木工用ボンド」のような人口樹脂の接着剤だと思われます。これも100年前のチェロとしてはおかしいです。
横板には細かい引っかき傷のようなものが一面に端から端まで罫線のように一続きになっています。手作りでこのような傷を入れるのは困難です。枯山水の庭園のようにわざと溝をつけていかなければできないでしょう。機械を使ってできた痕だと考えられます。
アンティーク塗装されているのは間違いありませんが、私が見たところまずぱっと見た段階で新しすぎるとすぐに感じましたが、以上のようにおかしな点がたくさんあります。
楽器自体もフランスの影響はまったく感じられず、スクロールもぜんぜん違います。同じ作者のチェロを後で文献で見つけましたがまったく似ていませんでした。
私は鑑定なんてことはしませんが、これが怪しい楽器であることはわかります。アンティーク塗装の大量生産品に偽造ラベルを貼ったものでせいぜい30年位前のものでしょう。1万ユーロ(約120万円)以上出すなら高すぎると考えます。
音が気に入ったからという理由で500万円出すのはもったいないと思います。そろそろネックも下がり指板の交換も必要になる時期でしょうから潜在能力を発揮させるには修理が必要になってくるころですので、それも計算に入れなくてはいけません。
鑑定書が誰のものなのかは知りませんが鑑定書が付いていると言ってもこんなものです。
チェロを作るより鑑定書を作るほうが作業は少ないでしょう。私は鑑定書の複製を作ったことがないのでわかりませんが・・・。それに対し複製でも本物のドボルザークと変わらない品質のチェロならすでに相当いい楽器ということになります。250万円はするでしょう。
気に入ったという音ですが、量産品によくあるもので、それにしてはバランスがいいという程度に感じました。でも本人にとっては「夢のチェロ」に出会えたと感じていらっしゃったのかもしれません。
このようなことはごくまれにあることではなく、日常的によくある普通のことです。たまたま今回は第三者の意見を求めるという賢明な行動のおかげで発覚しました。
こんな業界に勤めていると何かを信じることはばかばかしくなります。
前回の続き
チェロのニスを塗ることはヴァイオリン製作の技能の中でも最も難しいものと言えるかもしれません。もちろんお客さんの頭の中のイメージ通りの音を作ることが一番難しいのですが、作業として難しいのはチェロのニスを塗ることです。弦楽器の木材は白い色をしているので色を付けるにはニスに色がついていなければいけませんが、木目を隠すことなく透明である必要があります。それを刷毛で塗る場合均一に塗ることが大変に難しいからです。
もちろんいくらでも時間があるのなら注意深く丁寧に塗っていけばいいでしょうが、かかる時間が楽器の値段に直結します。前回から言っているように「値段はいくらかかってもかまわない」というお客さんならチェロのニス塗も地道な作業を続けるだけでいいのです。
できるだけ短時間で塗ることが求められるので大変に難しい作業となるのです。
かつて完璧に塗るために毎日作業して2か月くらいかかったこともありました。
今回のチェロは安価なものなのでそんなことはできません。
チェロはヴァイオリンと同じ色のニスだとはるかに明るい色に見えます。離しておいて見て同じ色だと思っているヴァイオリンとチェロを近づけて比べるとヴァイオリンのほうが色が明るいのです。これは面積が大きいと色が明るく見えるためです。
さらに広い面積に均一に塗るのは難しく、色の薄いニスを使う、一回に塗る層を薄くする、溶剤で薄めて塗りやすくする等が必要になります。
これらが、ニスを塗る前に木片で色などを調合して試しても本番のチェロでは色が全然足りないという原因にもなります。木片でのテストで5回塗って十分だと思ってもチェロでは10回塗っても足りないということもあります。
作業日数がこれで全く変わってしまいます。
コストの増大を考えると多くの場合明るすぎる色で未完成のまま完成としてしまいます。
しかし、チェロは低音楽器ということで明るい色はあまり好まれません。
イメージとして濃い色、強い色でなくては良い印象は持たれないでしょう。
安価な量産品の場合には木を濃い染料で着色したり、スプレーを使ったり、汚いアンティーク塗装によって濃い色になっていることが多いです。それは売れ行きから導き出されたのでしょう。
ワンランク上を目指すのに好まれない色のチェロではいけません。
濃い色できれいに塗るということは大変に難しいことです。
そういうためにも練習はとても重要でこのような量産品のチューンナップは訓練としてやっていても十分すぎるということはありません。
ヴァイオリンでも新しい材質のニスを実用化するのに、工場製の白木のヴァイオリンを使いました。イミテーションのトリックを試すのにも有効です。
ニスはちょっとの失敗でそれまで何百時間もかけて作ってきた楽器が台無しになってしまいます。特に染色・着色などでは一度染まってしまった色を除くことができませんからとても重要です。
初めてニスを塗るならこういう楽器で練習することをお勧めします。
今回の目標
我々の業界でも流行の手法のようなものがあって浅はかな職人の心をつかむわけです。私はマイペースな人なのでそんなものにはお構いなしなのですが、試してみることも必要です。そうでなければただの「頑固な職人」です。その結果が好ましくなければ流行の手法というのが使えないという結論に達するだけです。失敗するだろうと予想してもそれを確認するためにやってみる必要があります。もちろん失敗するように作業しては意味ないです。流行の手法で良い効果を得ようと最大限工夫しても大したことはないという結果が重要なのです。
今回テストするのは、茜の顔料です。
これは「ストラディバリが使った」というどうでもいい情報によって注目される材料です。またフランスの19世紀の楽器にも使われたようです。
茜の顔料は赤い色をしているもので、これを使えば真っ赤な色になるはずです。しかし赤い色ニスというのはそう簡単なものではなく大変に難しいものです。なぜかと言うと木は白いので、本当に赤い色で塗ってしまうとピンクになって見えるでしょう。そういうわけで赤いニスにしたいからと言って本当に赤い色で塗ってはいけないのです。私は落ち着いた琥珀色のような色調がすきなので、そのような鮮やかな赤い色の経験が不足しています。
琥珀色のような茶色のほうが良いとは思いますが、それでも赤いニスに挑戦してみましょう。
このような流行を聞きつけてきたのは社長で知識をひけらかすために社長がさんざんやりたがっていたのです。私の好みではありませんがそういう経験もいいでしょう。
着色は控えめにしました。下地が黒ければ鮮やかな赤が出ないかもしれないからです。結果的には杞憂でした。もっと濃い色でもよかったと思います。
目止めも去年新しく開発したものです。ヴァイオリン、ビオラで試して音はとくにいつもと何も変わらなかったものです。チェロは大きい楽器なのでもしかしたら目止めニスによって音が変わるのかもしれません。
今回もオイルニスです。
何層か塗り重ねて行くとオレンジ色になってきます。オレンジの強い色が赤いニスとなるのです。本当に赤色を塗ってはいけません。
チェロで難しいのは横板なのですが、オイルニスなら問題ありません。アルコールニスでは悲惨な作業になります。
新作の楽器ではオレンジ色のものはよくあります。別にこれで完成として成立しないということはありません。私にはいかにも「新作」という感じであまり好きではありません。しかし仕事ですから自分の好みだけを優先するのもプロフェッショナルとは言えません。
新品としてのきれいさを実感したい人には良いかもしれません。量産品のアンティーク塗装では汚らしいですから。
さらに塗り重ねていくとこのように赤いニスになりました。
途中で色調を調整して茶色を強めました。その結果オレンジから赤に色が変わってきました。
赤いニスが良いという人もいます。リクエストもあります。私としてはあらゆる色が使える状態にしておくことが重要だと思います。
赤いニスと言えばフランスの19世紀の楽器の特徴でもあります。しかしこれらは100~200年経っていますから新品と比較のしようが無いです。これらと同じようにしたければレプリカとしてアンティーク塗装しなければいけません。チェロの場合非常に手間がかかるのでこの価格帯の楽器では無理です。200年前のコントラバスの表板を新しく作った時にアンティーク塗装自体はできました。ただ時間がかかりすぎます。
演奏できるようにする
指板を取り付けて仕上げます。演奏に重要な部分なので気を使います。それでも新しい楽器や大掛かりな修理をした場合表板が変形したりして異音が発生したりします。
黒と赤とのコントラストです。
魂柱を入れます。新しいチェロはすぐに緩くなってしまうのできつめに入れます。
つっかえ棒になっているだけですので、接着はしていません。表板や裏板に面が合うようにするのは至難の業です。完璧にあっていると楽器が硬い感じがして音が出にくく感じることもよくあります。ちょっと甘いほうが自由に音が出るという印象を受けることもあります。新しい楽器なのできっちり合わせておきましょう。
駒の足は表板にピッタリ合うように加工します。
ペグの取り付けです。
完了です。
完成です
色は好みの問題でニスを塗っていると毎日見ているので目が慣れてしまってパッと見たときとは印象が違うでしょう。いつかメンテナンスなどで帰ってきたときにどう見えるかです。
音について
弦はピラストロのエヴァ・ピラッツィ・ゴールドを張っています。ヴァイオリン奏者の方もいるかと思いますので説明しますが、チェロではスチール弦をほとんどの人が使っています。ガットやナイロンもありますがほとんど使っている人はいません。スチール弦は強い張力でチェロでは一般的なものです。ただしスチール弦は金属的な嫌な音が特徴です。新しい製品ほどこの嫌な音が軽減されています。長年この音に慣れていてこれじゃなきゃダメだという人もいますが、プリムだとかヤーガーとか昔のスチール弦はひどい音です。
このエヴァ・ピラッツィ・ゴールドは高価ですが、スチール臭くない弦ということが言えると思います。それでいて音量や量感があるので多くの楽器でいい結果を得ています。
音ですが、同じメーカーの完成品とはだいぶ違うようです。板を薄くしたので低い弦をはじくだけでも楽器がよく振動しているように感じられます。古い楽器ではこういうタイプのチェロもあって好む人もいます。現代の量産品ではあまりないタイプですね。
したがってバランスとしては低音が強く出るものになっています。
A線も耳障りな音はなくとても柔らかいものです。新品なのでこれから強くなってくるでしょう。
新品で耳障りであればこれからもっとひどくなります。さらに弦が古くなってくるとメタリックな音になってきます。そうなると頻繁に弦の交換が必要になり、寿命が短いラーセンの弦を使わざるを得ないチェロではさらに費用がかさみます。
低音の量感はあるのですが手応えが甘い感じもします。やはりアーチを自分で作れないので板の厚さだけでは限界があります。張りが欲しいですね。ちょっと構造が柔らかすぎるかなと思います。もう少し板が厚いほうが良いようにも思いますが、そうすると別の問題も出てきて一長一短なのでしょう。
総じて上質な音の出方で量産品ではないタイプの音になったと思います。とにかく強い刺激的な音を求める方には向かないと思います。そのような方には古い量産品のほうがあっていると思います。
私としてはもうちょっと何とかならないかとも思うわけですが、完成した次の日に完売となりました。長く待っていただいていましたが、とても気に入っていただけたそうです。私の心配とは全く逆で音もニスも大いに満足していただいていたようです。
下地の目止めニスについては効果は分かりませんでした。以前同様のチェロを仕上げたときと傾向は同じでした。おそらく下地ニスが音に与える影響はあまりないと考えていいでしょう。ラッカーのような人工樹脂くらい硬さが違えば違いもあるかもしれませんが、天然素材のものでは材質を変えても劇的な差はないでしょう。
ストラディバリの下地ニスの秘密なんて追求しても意味がないとう結論に一歩近づきました。
その後別のチェロでトマスティークの弦を試してみました。Versumというものです。
これはスチール弦っぽさは残しつつスピルコアの嫌な音を軽減したものです。おそらくこちらの方が相性は良さそうです。低音の手応えの甘さが解消されると思います。そうなるともともと低音側が強いチェロですからしっかりした低音になるでしょう。金属的な音を持つチェロには合わないと思いますが、私が仕上げたり作ったチェロには合うかもしれません。
今はもう一つのチェロに取り掛かっています。今度はこっちの弦を使ってみましょう。
将来のチェロ製作について考えています。
田舎に土地を買って小屋でも立てて工房を作りたいなと夢を持っています。
都会の一等地では家賃だけでチェロの値段の大部分を占めてしまいます。
家賃を滞納するようになったら恐ろしいです。
製造直売であることも価格面で有利になるでしょう。
そうなれば、隅々まで丁寧に作っても200万円台でできるんじゃないでしょうか?
チェロ専門店を作って人を雇うようなことをすれば都会でもやれるかもしれません。日本人には優秀な職人が多くいて弦楽器店でつまらない仕事をしていますから人材は豊富です。ヴィヨームの工房のように優れたチェロを量産できるかもしれません。修理の仕事も膨大な量になるでしょう。
ただ私はヴィヨームと違って自分で楽器を作りたいので人を管理する仕事ばかりになるのはおもしろくありません。
日本に帰るなら東京と大阪の間の田舎に工房を作ってチェロに限らず楽器の製作や大掛かりな修理を中心にやりたいなとも夢を持っています。
その前にこちらでも私のチェロを欲しいという人もいますのでまずチェロを作って資金を稼ぎたいと思っています。いろいろな問題を解決する必要があります。