アマティ派のデルジェズコピーを作ろう【第3回】裏板を用意します | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

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クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

デルジェズコピー製作も始動しています。
基本的にはアマティのビオラと同じ作業です。
同じ作業でも惰性で作業してしまうのではなく、注意深く見ていくとデルジェズならではの味が見えてきます。




こんにちは、ガリッポです。

私の作る楽器が美しく、また複製としての完成度が高いということは私の自己評価よりも高く同業者の人からも言われます。その時批判されるのは「あなたは見た目だけ作っていて音のことは分かっていないね。」ということです。

このようなことを言われて反省するのですが、音が分かっているという職人の話を聞いてみると幼稚すぎてどうにもならないです。私以上に常識はずれのいろいろなスタイルの楽器を作った人に会うことがないです。すごく狭い視野での些細な作り方の違いのことで「こう作ると音が良い」とか信じているのです。

自分自身はそのように作っているのでしょうが、他のパターンも作ってみないと本当にそれが音が良い秘訣なのか実証できません。いろいろ違うスタイルのものを作ってみても音のキャラクターは違うけどそんなに際立って音が良いとか悪いということはないです。それしか作ったことがないのにそれが音が良い楽器の作り方だと信じ切っているのです。



思い込みの激しいオカルト思考の人については度々語ってきましたが、真面目で善良、勤勉で腕の良い職人であっても例外ではありません。

コミュニケーションに長けた職人なら「ストラディバリはこうなっているから音が良い」とか「デルジェズはこうなっているから音が良い」みたいなことをどこかで聞きかじって知っています。さらに聞いてみると有名な職人がこう言っていたとかまた聞きの知識を集めているだけです。自分の師匠の教えを絶対的に信じていることもあります。つまり自分では試していないのです、偉い人が言っていたから間違いないというのです。

人間というのは「偉い人が言ったこと」を正しいことだと認識するようにできているのでしょう。

その点で言うと私のほうがとても頭のおかしな人間で、偉い人が言ったとしても実際に音を聞いてみないことには納得しません。

人間も群れで行動する哺乳類なので、その性質として社会には順位があり、順位の低いものは高いものに従うという性質が備わっているのではないかと思います。群れで活動するのにはリーダーが必要でリーダーの言うことには従わないとうまく行かないのは想像がつきます。群れが機能しなければ生存に不利ですからそういう個体は淘汰されてしまったのでしょう。こんなことを考えるのは偉い人の言うことを無批判に信じるというのが、単に考え方を変えるとか頭の良し悪しとか本を読んで勉強してどうにかなるレベルじゃないので本能的なものじゃないかなと思うのです。

動物の性質について人間の社会を押し付けて当てはめるのは正しくないという意見もありますが、突き詰めていくと動物としての性質が関係しているんじゃないかなと思うのですがどうでしょうね?それほど根深い問題です。




話がそれましたが、実際に手を使って試行錯誤をし、客観的にそれを評価していないのです。客観的に自分の楽器や偉い職人の楽器を他の楽器と比べてみれば、はるかに安価な楽器にボロ負けになることはよくあるのです。一般の演奏者10人中8人は安価な楽器のほうが音が良いと言うケースはよくあります。

自称「楽器は見た目じゃない、自分は音が分かっている」と言う人の理屈はたいていUFOや宇宙人を見たという人くらいの信憑性です。音が良い楽器の作り方を知っている人というのはまさか自分や偉い職人の楽器がはるかに安い楽器にボロ負けになっているとは思いもよりませんから比較もしません。比較しても難癖をつけて安い楽器を悪く言うのです。

偉い職人や偉い職人の教えに基づいて作った自分の楽器が優れていると思い込んでしまうのは人間として普通のことなのでしょう。


でも実際に試してみると安い楽器で音が良いものがあるのです。新作ばかりやっているとそういう楽器に出会うこともありません。私がいるのはヨーロッパですから、「おじいさんが使っていたヴァイオリンがあるけど孫がヴァイオリンを始めたいから直してくれ」という依頼があって、見るとチェコ製の安い楽器ですが、これが修理すると音が良かったりするのです。商品としてそういう楽器を買おうと思って買えるわけではないのですが修理の仕事をしていると現実に安い楽器で音が良いものはあるのです。

安くて音が良い楽器を調べてみると作りはメチャクチャだったり、単にいい加減に作ってあったりして些細なことを気にしているのはバカバカしくなるようなことがよくあります。また同じような作りの特徴を持った楽器でもあるものはとても音量があり、別のものは蚊の鳴くような音しかしないことも経験します。ストラディバリと違う方法で作ってあっても我々の新作の楽器に比べたら音が良いものは実際にあるのです。ストラディバリと違う特徴でも音が良いことはあるのですが、普通の人間というのはストラディバリのやり方だけが音が良い楽器の作り方だと思ってしまうのです。


私は「ずば抜けて音の良い楽器の作りかたはわからない」と言います。
これは知識が不足しているのではなくて、むしろいろいろなケースを見ていくと例外を多く経験し規則性や法則性が見出せずわけがわからなるということを言っています。無知な人ほど「自分は音の良い楽器の作り方が分かっている」と自信満々に言うのです。


音が良い楽器の作り方が分かっているのなら見分け方も分かっているつもりでしょう。私はひどくなければ良いと言っています。メチャクチャなものにも音が良いものがあると経験しているからです。人によって感じ方が違いますから、あなたは良い音だと思わなくても、別の人は音が良いと思うことがあるのです。それも含めると「音が良い楽器の見分け方は?」と聞かれれば「ひどくなければどれでも可能性がある、弾いて試してみるしかない。」と答えます。

遠鳴りという厄介な問題もあります。
広いホールで響く楽器は耳元では大したことがありません。
耳元で強ければホールの後方ではか細い音なのです。
もし「音が良い楽器の作り方を発見した!!」と豪語して、試演奏して「確かにそうだ」と実感できたとしても耳元で強いだけかもしれません。何年か弾き込んで楽器が鳴り始めたら音が強いというのを通り越して耳障りになってしまうかもしれません。


演奏家としてプロの道をあきらめた中途半端な演奏の腕前の職人が自分の弾いた耳元の音だけで「良い音だ!!」と判断してしまうことも危険です。職人としての技能に自信がないと陥りやすいです。「俺は音が分かるんだ!!」ですよ、怖いですね。プロでさえも耳元の音だけで判断するのは危険ですから。


私の楽器はホールで試すとほかの新作の楽器とは明かに違って優れていても、耳元では大したことはないです。だからすごく音が良いという実感を持ってもらうのは難しいです。
ヨーロッパで私の楽器を愛用している人は「音が美しい」と言って特別に気に入ってもらっています。周りの人にもそう言われるそうです。パワフルだとは言われません。
日本で使ってもらっている人もいますが、日本では使われている楽器のレベルが低いせいでしょうか良く鳴ると言っておられる人もいます。私は「いやいや、私の楽器はヨーロッパではさほど鳴る楽器ではないですよ」と説教しなくてはいけません。

また周りの人に音が良いと言われるそうで、それは離れて聞いて良く聞こえるということでしょうね。他を圧倒するほど派手な音でなくても、もともと美しく遠鳴り傾向の楽器ですから、数十年経って音が強くなってくると値段を考えれば良い感じですね。



「音のことが分かって楽器を作っている」と言う自信過剰な人は、人間としてはごくまともな人で場合によってはとても感じがよく親切で面倒見の良い人かもしれません。気持ち悪い怖い感じの人でなく、良識を持った好感の持てる立派な人物でもそうなのです。

私は頭がおかしいので偉い人が言ったことでも実際の音を確かめなければ納得しません。はるかに安い楽器でも音が良いものがあるという事実を客観的に受け止めるような気の狂った人間なのです。
まともな人間は自分をつねに肯定的に見ていますからそんな自分が損するような物事の理解の仕方をしないかもしれません。安価な楽器より自分の楽器が劣っているかもしれないと考えることがないのです。それはまさに盲点です。クレモナの偉い職人がチェコやハンガリーの楽器にぼろ負けしている事実を知る由もないのです。東欧の演奏者たちはそのような楽器で本当に素晴らしい音を奏でているのです。バカにしてしまっているのでクレモナのマエストロたちは気付くことができません。


そりゃあ、偉大なマエストロの教えを聞いて「本当かね?」と思う私は人としておかしいですよ。人間の社会というのは偉い人の言葉はありがたく聞かなくてはいけないのです、偉い人の言うことを本当かどうか試そうなんてもってのほかです。疑うこと自体が悪なのです。


会うのは誰もかれもそういう普通の人ばかりで話を聞いてもワクワクするようなことはないです。それが普通で私のほうが頭がおかしいのですからしょうがないです。私は人の言うことよりも楽器を見て音を聞くほうがはるかにワクワクします。ヘンテコな楽器が良い音を奏でていたら楽しいものですよ。人の言う言葉ではなく楽器自体に目を向けるのです。楽しさを皆さんにも伝えられないかと思っているわけです。

ぜひ、この頭おかしい快楽主義者のブログを読んで楽しんでください。

裏板を用意します

まずは裏板を用意します。今回は真ん中で2枚の板を張り付けて使います。一枚板ばかり使ってきたので久しぶりです。
まず板にカンナをかけて平面にします。

薄い板はたわんでしまうのでカンナをかけるのは難しいのです。分厚い一枚板ならカンナがしっかり調整されていれば勝手に平らになりますが、薄い板はたわんでしまうので面倒です。厚みがあれば両面をカンナがけすればたわんで変形しないので理想的に加工ができます。

裏板で杢と言われる横縞模様が生じるのは木の繊維がうねっているからで逆目順目が5mm~10mm間隔くらいで交互に現れます。普通カンナで縦方向にかけると逆目のところで割れてしまいます。このような西洋のカンナはうまく調整してあげると逆目でも割れることがありません。普通日本のカンナでは割れると思います。それを防ぐために刃を究極的な切れ味になるように研いだりするのでしょうね。刃の切れ味に頼るのは日本の刃物の文化で日本の鋼が優れている理由です。
そこまでしなくても機能するという意味では西洋のカンナは合理的です。しかし電動工具の普及で現代では西洋でも刃を鋭利に研いで金属製のカンナのソールをしっかり調整できる人はほとんどいなくなってしまいました。


これは台の長さが55cmのカンナです。これで正確に接着面を加工できます。
カンナの削りくずを伸ばしたものです。板に凸凹があると削りくずはぶつ切れになります。カンナは一定の厚さにしか削れないからです。端から端まで薄い削りくずでカンナが通るようにならないと加工は完了していません。

金属製のカンナは狂いやたわみがなくとても正確に加工ができます。このように削りくずが出ればもう完璧です。ただしごまかしが一切効かないのでカンナのソールが少しでも狂っていれば何時間削っても仕上がりません。


接着します。
デルジェズの時代にはこのようなカンナは発明されていません。ここまで正確に加工していたとは考えられません。しかし品質として悪いものを私が売るわけにはいきません。見えないところは精巧に加工して、作風として表面に見えるところはデルジェズのように少し雑に作るというのが今回の楽器作りです。

表面はきれいなのに見えないところは粗雑という楽器はたくさんありますが、その逆です。


貼り合わせた後さらに表面を平らにします。完全に平らである必要はないのですが横板との接着面になるのでひどいと異音が生じたりします。異音が生じたとき表板なら修理もできますが、裏板だと大変です。乾燥すると異音が発生して毎年のように応急処置を繰り返している楽器もあります。

こんな感じです。
オーソドックスなものです。アマティのビオラでは板目板を使いましたが、デルジェズには合いません。



これが継ぎ目です。これだけ拡大してもほとんど見えないですね。しっかりくっついている証拠です。
楽器を選ぶとき演奏者は全く興味のないところですがとても重要な部分です。職人はこういうところに気を使っているのです。
継ぎ目が黒くなっているのはうまく接着されていません。
オリジナルのデルジェズもうまく接着されていませんから修理をして補強してあることでしょう。新作を買って修理が必要というのは出費がバカになりません。

塗装の時にダミーでうまく接着されていないように見せかけるトリックを施しましょうかね?
デルジェズの複製では品質が悪いように見せかける手間暇が余計に必要です。


表板も同様です。今回使用したものは35年前くらいのもので切りたての木に比べるとカサカサして割れやすくなっています。扱いには注意が必要です。


切り抜きます


裏板を切り抜いていきます。今回は手動のノコギリで行きます。電動に比べると時間はかかりますが楽しいです。これが楽しいなどと言うのは他の職人には誰からも理解されません、まさに変態です。

手動でもちゃんときれいに切れるのです。

それ以外のことは電動と同じです、この前のビオラと全く同じです。

コピーですのでオリジナルのデルジェズに正確に加工します。デルジェズの場合には完璧な美しさというのではないので仕上げの不完全さもそのままに再現する必要があります。アマティでは正確であるだけでなく寸法には表れないような人間が感じる微妙な美しさに対して視覚的に仕上げる必要があります。
それに対してデルジェズはオリジナルに対して正確に加工するだけです。歪んでいてもそのまま歪んだように加工するのです。

ノコギリできる段階ではまだまだこのような差は出てきません。基本はアマティの時と全く同じなのです。

木枠を作ります

木枠も必要になります。ストラディバリのコピーの時もそうでしたが、普通は木枠に横板を張り付けてそれをもとに裏板や表板を作ります。

それに対して私の作り方は裏板や表板を先に作ってそれに合うように、横板を作ります。
なぜそうするかというと正確に裏板や表板の形を作り出すためです。

木枠+横板を基準に表板や裏板を作ると誤差が出ます。特にキャラクターの重要なコーナー付近の誤差はとんでもないです。誤差を少なくするためにはきわめて正確に横板を作る必要がありますが、あまりにも丁寧にやってしまうと作風が違ってきてしまいます。初めの作業で製作態度が精密加工モードになってしまうと現代風の作風になってしまいます。

荒々しくかつオリジナルに忠実というのは難しいのです。

裏板と表板に合わせて横板を「ねじ込んでいく」のです。


木枠には合板を使います。ヨーロッパの合板は日本のものと違いとても薄板が何層にも重ね合わせてあります。こういうところは日本のものよりも緻密にできているというのは意外かもしれません。この合板はとても重たくてしっかりしたものです。

これもノコギリで切っていきます。
ポイントはデルジェズの表板と裏板の形は違うので横板が垂直ではなく斜めになるところが出てくるわけです。木枠も裏と表で形が違うわけです。ある程度まで加工しておいて後で実際に裏板や表板にあてがって最終的には仕上げます。

このことを私は「ねじ込む」と言っています。


普通は木枠をもとに表板や裏板を作るのですが、デルジェズやストラディバリも含めてこの時代の人はそんなに木枠に対して忠実に作っているわけではないのでアドリブで感覚で作っているのです。複製を作る場合はアドリブで作られたものを正確に再現するのでこのような方法を取っています。

本人は結果オーライで適当に作っていただけです。

これが面白いのはデルジェズがアンドレア・グァルネリやピエトロⅠ・グァルネリ、父のジュゼッペ・グァルネリの木枠を使ったとしてもデルジェズらしい楽器に仕上がるのです。

よく見ていくとアマティのようなモデルのデルジェズもあります、それでもパッと見た雰囲気はどう見てでもデルジェズなのです。そういう癖こそがヴァイオリン職人のキャラクターなのです。

アドリブで作っていた時代の楽器というのはおもしろいのです。
ストラディバリなんて左右を反転してあてがってみると全然合いません。ところがJ.B.ヴィヨームのコピーでは左右が対称すぎるのです。なので見た瞬間になんか違うと感じます。19世紀フランスの楽器製作では外枠という木枠を使っていたので表板や裏板を正確にかたどることができます。

それに対してアマティのビオラは左右はかなり正確に対称でした。おそらく今回作っているビオラはアマティの中でも相当完成度の高いもので、有力な貴族のために最高の品質で作ったものでないかと思います。木枠に対して忠実でないということは左右対称にもできるということです。

「古い名器は歪んでいるのが良いんだ。」なんて格好つけてウンチクを言ってはダメです。人それぞれです。


私が複製を作るときはどちらか半分を写して反転させるのではなくオリジナルと同じようそのまま非対称にコピーします。


19世紀のフランスの製法と違い内枠を基準に楽器を作る、現代の一般的な製法では誤差が多く左右が完全に対称なものはできません。そういう意味では左右は対称ではないのですが、オリジナルへの忠実度にも誤差が出ます。

いい加減に作られたものを正確に再現するというのが私のスタイルです。
ササッと作ったものを再現するほうが難しいです。丁寧に作られたものならごまかしがきくのです。サインとか書道を真似するのが難しいのと同じです。



今日はこんなところです。
また次回。