月曜日。仕事の合間を縫って、私は兄の自宅を訪ねた。先日約束していた届け物があったからだ。しかしその日、私は、兄のある『秘密』を知ってしまった。
兄が住むマンションは、田園に一本の鉄道が走る側に佇む、二階建ての古いマンションだった。マンションの前に駐車場があり、ちょうど私の胸の辺りの高さほどある黒い柵で周りを囲まれている。本来肌色の外壁は少し黄ばみ、壁材のデコボコと窪んだ部分が黒ずんでいる。マンション脇の路肩に車を止め、一階の兄の部屋の前まで行き、その外壁に備えられたインターホンを鳴らす。
しかし、返ってきたのは沈黙だった。コンビニにでも出かけているのだろうか?
何度インターホンを鳴らしても物音一つ聞こえないので、私は軽くドアノブを回した。
「不用心だな……」
部屋の鍵は掛かっていなかった。気が引けたが、仕方なく中へと入った。もっとも、身内なのでそんなに遠慮することはないのだが、何となく勝手に部屋に上がることに罪悪感を感じ、私は兄が留守の時に彼の部屋に上がったことはなかった。
上がり框のすぐ脇にあるスイッチを押すと、ダイニングの電気がついた。入ってすぐ正面にダイニングルームがある。木製のダイニングテーブル。その奥の大型テレビ。脇に備えられた広々としたシステムキッチン。綺麗に片付いている所を見ると、あまり使われてはいないようだ。一人でこれだけのスペースを使うのは、勿体無い気がする。外観は冴えないが、内観はなかなか洒落ている。
ダイニングの奥には彼が普段過ごしているであろう二つの部屋が、扉を半分程開けて中を覗かせていた。右側は洋室で隅の方にベッドが見える。ここは寝室として使っているようだ。左側の部屋は八畳程の部屋で、左側には白いラックとチェスト、三段式の本棚などが綺麗に整列されている。本棚に並んだ本の背の部分が視界に入った。医学書が大半を占めていて、その片隅に著名作家の小説が僅かに置かれている。
私は主にミステリーを読むが兄は何故かホラー作品が好きなようだ。先日映画化された原作のタイトルが目に付いた。
その部屋の右側部分はドアの死角で見えなかったのだが、奥には事務机のような明るいグレーのスチール机が置かれ、その上に黒いノートパソコンが置かれていた。
その手前――AVボードに置かれた三〇インチ程のテレビとビデオデッキが視界に入る。
「……てよ!」
何だ?
「……めてよ!」
子供の声が聞こえる。
私は横からテレビを覗きこんだ。そして次の瞬間思わず息を呑んだ。
子供がシングルベッドに黒い縄で縛り付けられている。まるで張り巡された蜘蛛の糸のように、餌食とおぼしき少年が縛り付けられている。映画だろうか? ビデオデッキの電源が付いていることを確認した。しかし、その予感は外れた。途端、私は耳を疑った。
男の――それも身近な人間の声が聞こえたからだ。
「どうだ? もっと強く縛った方がいいか?」
兄の声だった。
画面には男の子の縛り付けられた頸部から足首の辺りまでが映り、兄の腕から先が、男の子の体を弄ぶように撫で回している。その指が、時々、男の子の体を抓る。男の子はバタバタと激しく抵抗するが、黒い縄は男の子の体に食い込み、その体をベッドへと戻した。
男の子は涙声を含ませて息を切らす。
「やめてよ……!」
必死に叫び声を上げて体を激しく揺さぶる。私は、胸の動悸が止まらなかった。
「オモチャ買ってあげないよぉ?」
兄の声だ……。
そこで一度、兄の腕は画面の袖へと引っ込み、私は一抹の安堵を覚え、胸を撫で下ろした。そうだ。これはきっと悪い冗談だ……。しかし、そんな私の僅かな希望はすぐに裏切られた。画面の裾に何かが見えた。ギラリと光沢を放つ物。果物ナイフだった。途端に鼓動が強烈な脈を打つ。ナイフは歪な程に輝きを放っている。私は再び息を呑んだ。
まさか!
私の頭の中に、考えたくもない最悪の予感が浮かんできた。
同じ川で発見された二つの遺体。まさか、兄が――?
「さて、もっと楽しいことしようか?」
ナイフの切っ先が男の子の体の上を、まるでスケートでもしているかのように滑る。
「やめて……」
男の子は涙を含んだ、虫の音のようにか細い声を発している。私は画面に目を背けながらも、屈伏の心地で視線をそこから外せずにいた。
ナイフの先端は焦らすように体をなぞっていく。また兄の声が聞こえた。クク、と押し殺すような笑い声。カメラはナイフの動きに合わせて移動していく。上半身から下半身に向けて滑らかに泳いでいくと、胸の上で、その手はピタリと止まった。
「幼いなぁ」
笑いを含んだ声。
刹那、ナイフが画面から消えた……。上へと振りかざしたのだ!
まさか! 耐えきれず私は思わず目を伏せ、耳を塞いだ。
――けたたましい悲鳴。それを予期していたのだが、男の子のすすり泣く声だけが聞こえた。
心臓が止まりそうだ……。気付けば、私の体中にはじっとりとした汗が滲み出ている。私は、兄が変質者であるという事実と、このビデオのあまりにショッキングな映像を受け入れきれず、その場に倒れこんでビデオを一旦停止した。
テレビの前で四つん這いの姿勢のまま息を切らす。息が肺の奥深くから押し出されるように次々と出てくる。ねっとりとした汗が心の内側にまで、まるで脳を持った生き物のように入り込んできそうだった。頭が、脳が、感情がうまく働かない。
私はしばし床に視線を落とし、呼吸がいくらか楽になったところでビデオデッキに手を伸ばし、テープを取り出した。テープの背中の部分に白いラベルが貼られ、『1』と書かれている。
他にも?
私は鎖骨の辺りから腹へと向けて流れ落ちる汗を感じながら、他のテープを必死に探した。オカルトホラー、ボクシングの試合の録画、ドキュメンタリー番組……違う!
音を立ててラックの中を弄る。すると、予期せぬ方向から物音が聞こえた。
玄関の扉の閉まる音。
兄だ。兄が帰ってきたのだ!
私は反射的に体を起こした。頭の中に螺旋を描く映像。子供の絶望的な眼差し。すすり泣く声。その体を弄ぶ指先。兄の笑い声。
今兄に姿を見られたら、言い訳の仕様がない。視界の縁にぼんやりと白い膜が張っているのを感じながら、私は窓側へと急いだ。
ここからベランダへと出れば!
力のこもった足音が近付いてくる。
「誰だ!」
兄の叫び声が聞こえた! 例え泥棒と思われてもいい! とにかく、一刻も早くここから逃げ出さなくては! 両足がぎこちなく動く。窓を開ける。まばゆい光が強烈に私の顔に照りつける。ベランダへと飛び出す。何も聞こえない。上空の雲間から縫うように照らしつける光。私はその光の中へと飛び出した。
すかさずベランダの柵を上り、下へと潜り込む。荒々しく窓を開け放つ音……ベランダが激しく軋む。兄が辺りを見回しているのだろう。
「どこだ……!」
高鳴る鼓動――兄が部屋の中へと戻るのを見計らって、私は勢いよくベランダの下から飛び出した!
心臓が飛び出そうな程脈を打っている。しかし、心の片隅は自分でも驚く程に冷静だった。車に向かい、走り続ける私の頬には、年甲斐もなく、いつの間にか涙が溢れていた。不思議な感覚だった。