人間成長の環境づくり
今日、小学館が学習雑誌『小学五年生』『小学六年生』を平成21年度いっぱいで休刊すると発表しました。
付録付きで楽しかったのをよく憶えています。みんな同じ付録なのに作り方によって随分違ったものに出来上がって笑ったものです。
その休刊の理由は「高学年児童の関心の多様化などから需要が減少し・・・」とあり、世に言われる単なる出版不況や少子化だけでないらしいです。
しかし、小学生で関心の多様化?
僕の娘もちょうど同じくらいの年齢なので、興味があったのでちょっと調べてみました。
「小学五年生」が昭和48年に最高部数を記録したとき
約65万部
そのときの対象者は
約155万人
そうすると、40%以上の人が読んでいたことになります。
今はどうかというと
約5万部
そして対象者は
約110万人
ということは読者数は5%弱になってしまったということです。
この数字を見ると確かに少子化ではなく多様化のせいなのかもしれません。
しかし・・・ここでとても考えさせられます。
この小学生シリーズが受け入れられているかどうかというのはおいといて、果たして多様化だけでかたづけていいのか?
ということです。
幼少のときに、同じ土俵で練習し、戦い、そして勝負が決まる。
だからこそ、勝ち負けがはっきりしていて、初めて自分の力量を理解し、そして勝つために努力する。
そんなことが子供を育ててきたのではないかな
と思います。
ある程度同じ方向や志の中で、多少違っていることはお互いに理解できますが、
まるっきり違うステージであるならば、仮に間違っていても比較することができないのです。
似たような話で、今では、運動会では、1位とか順位を決めない運動会があるといいます。
これも同じようなことが言えるのではないかな、と思います。
勝負というのは、時に残酷に映るかもしれませんが、ちゃんと逃げずに戦い、勝ち負けを自分で理解させることが重要です。
そして、負けたならば、次にそれを乗り越えることで、初めて人間は成長してゆくものだと僕は思います。
個性で片づけたり、戦いの場をなくしてしまうのは、逃げ場や言い訳を作り、どんどんひ弱になってゆくのです。
人間形成の基盤をまず同じ土俵で作ってあげるのも必要なのではないかな、
個性が重要だというのは、そのあとの話なのではないかな、
と思います。
ひょっとすると自分が育ってきたことが常識と言いはり、一般常識を常識と理解できない人が増えかねないでしょう。要は人の言うことを受け入れられないということになってしまうのです。
重大な犯罪を犯した人が本当にそれを悪と理解していない人がいたりしますが、それってこういうことが生きてきた過程にあったのかもしれません。
もし、そうであるならば、社会の犠牲者なのでしょう。
いい社会を創ってゆきたい、
そういう想いがさらに強くなります!