さあ、<強制>も<命令>も<指導>も<教育>も、なんだか、うまくいかない。
じゃあ、どれすればいいの?
そこにあるのは、一つの執着です。
手放したつもりでも、まだ、ひつこく残っています。
あなたが、お釈迦様だとします。
悟りを開きました。
あなたが、イエス・キリストだとします。
神の言葉を聞きました。
さあ、どう考えるでしょうか?
「こんなすばらしいことを、知ったのだから、みんなに伝えてあげたい」
当たり前のことですね。
蒸気機関が生まれ、石油が使えるようになり、電気が発明され、電球が出来て、電話が出来て……。
やがて人は空を飛べるようになり、宇宙にも出かけていきます。
手紙が、電話になり、コミュニケーションは、今では、ネットの世界で一瞬で世界中の人々と繋がれるようになりました。
すばらしいことだから、みんなに広めてあげたい。
その結果です。
でも、ここに、落とし穴があります。
「……ねばならない」
そう考えてしまったら、どうなるでしょうか?
私は、医療従事者の端くれです。
なので、医療従事者は……であるべきだ。
そんな、ステレオタイプの概念があるかもしれません。
でも、同じ医療だって、パターナリズムから、むんてら、インフォームドコンセント、医療面接へと、どんどん変化してきています。
だから、固定概念は危険です。
面白い例です。
ある日、東京の大学にお邪魔しました。
エレベーターに乗っていると、みるからに、怖そうな女の先生が乗っていました。
そこへ、学生が乗ってきます。
と、女教師さんは烈火のごとく怒ったのです。
「どうして、私に挨拶をしないのよ!」
もちろん、病院ですから、患者さんも乗っています。
わたしもいます。
その先生には固定観念がありました。
先生は偉いのよ。
だから、学生から先に挨拶をすべき。
もちろん、わたしがそれを観察しながらほくそ笑んでいたのはご愛敬。
自分から、「こんにちわ」って言えばいいのにね……。
さあ、ネットを見ていても、いろいろなものがあります。
「私の言うことを信じなさい」
「わたしのセミナー受ければ、幸せになれます」
「この本を読めば、お金持ちになります」
「……すべきである」
「……しなければなりません」
などなどなどなど。
悪魔のささやきですね。
悪魔さんは、たくみに、あなたの虚栄心をくすぐってきます。
「あなたは素晴らしい」
「おまえは、世界のリーダーだ」
条件がついていますね。
「……すれば、……だよ」
もちろん、裏があります。
「……しないと、……できないよ!」
ご用心、ご用心です。
でも、私は、別に悪魔さんを悪いやつだとは思っていません。
だって、悪魔さんは、私たちの心の隙を教えてくれる、貴重な存在だからです。
油断は禁物という教訓です。
さあ、お釈迦様やイエス・キリストです。
「みんな、悟りを開かなくてはならない」
「みんな、天国に行かなくてはならない」
なんて、固定概念から脱却しました。
お二方とも、「我を信じよ」なんて言っていませんよ。
一生懸命に、悟りのすばらしさ、極楽や天国のすばらしさを説いたんですね。
そして、そこに至るための方法を伝えようとしたんですね。
アダムとイブの、蛇にだまされて知恵の実を食べてエデンの園を追い出された罪。
(知恵を得ることが罪なのかどうかは、私にはわかりませんが……)
それを、子々孫々が被る必要があるんでしょうか?
まあ、アメリカでは、数千年の刑というのもありますが、一代限りですね。
子孫には罪はありません。
だから、イエス・キリストは「汝の罪は許された」って、言ってくれたじゃないですか!
神さまは、私たちに、一番大事なものをくれたんですね。
それは、自由です。
自由意志です。
人は、みんな、強制されることが嫌いなんです。
自由でいたいんです。
人は、みんな、命令されることも、指導されることも、教育されるなんてのも嫌いなんです。
たとえ、地獄の真ん中にいても、それは、その人の自由意志です。
さあ、ねばならないを手放します。
あなたは、周りの人に、その人は、「こうあるべきだ」という固定概念を持っていませんか?
その人が、あなたにやった何かのイベントだけで、その人は、「こういう人だ」と思い込んでいませんか?
あなたが、もっと良い方法があるのにと思った時、それを、強制しようとしている自分に気がつきませんか?
もし、同じように、あなたがされたらどう感じますか?
さあ、ひとつの極意です。
<第一原則>
人は、原則的に自由である。
<第二原則>
ただし、自由にはルールがある。
他人の自由を奪ってはならない。
簡単でしょう!
でも、お釈迦様やイエス・キリストは、次の<第三原則>を実践しました。
常人にはなかな出来ないことです。
それは、次のステップで。
じゃあ、どれすればいいの?
そこにあるのは、一つの執着です。
手放したつもりでも、まだ、ひつこく残っています。
あなたが、お釈迦様だとします。
悟りを開きました。
あなたが、イエス・キリストだとします。
神の言葉を聞きました。
さあ、どう考えるでしょうか?
「こんなすばらしいことを、知ったのだから、みんなに伝えてあげたい」
当たり前のことですね。
蒸気機関が生まれ、石油が使えるようになり、電気が発明され、電球が出来て、電話が出来て……。
やがて人は空を飛べるようになり、宇宙にも出かけていきます。
手紙が、電話になり、コミュニケーションは、今では、ネットの世界で一瞬で世界中の人々と繋がれるようになりました。
すばらしいことだから、みんなに広めてあげたい。
その結果です。
でも、ここに、落とし穴があります。
「……ねばならない」
そう考えてしまったら、どうなるでしょうか?
私は、医療従事者の端くれです。
なので、医療従事者は……であるべきだ。
そんな、ステレオタイプの概念があるかもしれません。
でも、同じ医療だって、パターナリズムから、むんてら、インフォームドコンセント、医療面接へと、どんどん変化してきています。
だから、固定概念は危険です。
面白い例です。
ある日、東京の大学にお邪魔しました。
エレベーターに乗っていると、みるからに、怖そうな女の先生が乗っていました。
そこへ、学生が乗ってきます。
と、女教師さんは烈火のごとく怒ったのです。
「どうして、私に挨拶をしないのよ!」
もちろん、病院ですから、患者さんも乗っています。
わたしもいます。
その先生には固定観念がありました。
先生は偉いのよ。
だから、学生から先に挨拶をすべき。
もちろん、わたしがそれを観察しながらほくそ笑んでいたのはご愛敬。
自分から、「こんにちわ」って言えばいいのにね……。
さあ、ネットを見ていても、いろいろなものがあります。
「私の言うことを信じなさい」
「わたしのセミナー受ければ、幸せになれます」
「この本を読めば、お金持ちになります」
「……すべきである」
「……しなければなりません」
などなどなどなど。
悪魔のささやきですね。
悪魔さんは、たくみに、あなたの虚栄心をくすぐってきます。
「あなたは素晴らしい」
「おまえは、世界のリーダーだ」
条件がついていますね。
「……すれば、……だよ」
もちろん、裏があります。
「……しないと、……できないよ!」
ご用心、ご用心です。
でも、私は、別に悪魔さんを悪いやつだとは思っていません。
だって、悪魔さんは、私たちの心の隙を教えてくれる、貴重な存在だからです。
油断は禁物という教訓です。
さあ、お釈迦様やイエス・キリストです。
「みんな、悟りを開かなくてはならない」
「みんな、天国に行かなくてはならない」
なんて、固定概念から脱却しました。
お二方とも、「我を信じよ」なんて言っていませんよ。
一生懸命に、悟りのすばらしさ、極楽や天国のすばらしさを説いたんですね。
そして、そこに至るための方法を伝えようとしたんですね。
アダムとイブの、蛇にだまされて知恵の実を食べてエデンの園を追い出された罪。
(知恵を得ることが罪なのかどうかは、私にはわかりませんが……)
それを、子々孫々が被る必要があるんでしょうか?
まあ、アメリカでは、数千年の刑というのもありますが、一代限りですね。
子孫には罪はありません。
だから、イエス・キリストは「汝の罪は許された」って、言ってくれたじゃないですか!
神さまは、私たちに、一番大事なものをくれたんですね。
それは、自由です。
自由意志です。
人は、みんな、強制されることが嫌いなんです。
自由でいたいんです。
人は、みんな、命令されることも、指導されることも、教育されるなんてのも嫌いなんです。
たとえ、地獄の真ん中にいても、それは、その人の自由意志です。
さあ、ねばならないを手放します。
あなたは、周りの人に、その人は、「こうあるべきだ」という固定概念を持っていませんか?
その人が、あなたにやった何かのイベントだけで、その人は、「こういう人だ」と思い込んでいませんか?
あなたが、もっと良い方法があるのにと思った時、それを、強制しようとしている自分に気がつきませんか?
もし、同じように、あなたがされたらどう感じますか?
さあ、ひとつの極意です。
<第一原則>
人は、原則的に自由である。
<第二原則>
ただし、自由にはルールがある。
他人の自由を奪ってはならない。
簡単でしょう!
でも、お釈迦様やイエス・キリストは、次の<第三原則>を実践しました。
常人にはなかな出来ないことです。
それは、次のステップで。