もう一度、考えてみましょう。
物事は、中立です。
一杯の水。
これは、ただの一杯の水です。
それだけです。
それに、意味を与えたのは、私たち自身に他なりません。
「もう、半分しかない」
そんな風に、ネガティヴに捉えることもできます。
「まだ、半分ある」
と言った具合に、ポジティヴに捉えることだってできます。
それは、水自体がそうしているのではないですよね。
意味を与えたのは、私たち自身です。
もし、おなか一杯なら、「まだ半分も残っているよ」ですね。
もし、熱い日差しの下を長い時間歩いてきて、のどが渇いていて居たら、「半分しかない」ですね。
あれ、シチュエーションが変われば、ポジティヴとネガティヴが反転してしまいました。
変ですね。
水は、ただ流れてきて。
そこにいるだけです。
凍れば、スキーやスノーボードにだって使えますね。
何度も、書いたと思います。
物事は中立。
だって、水に、心はありません。
なにかを押し流してやろうとかいう、ネガティヴな意志は持っていないんです。
田畑を潤してやろうなんて、ポジティヴな意思も持っていないんです。
水は、ただ、流れるだけ。
人間って、面倒くさい!
考えすぎ!
さあ、一杯のお茶があります。
茶の湯の創始者の千利休は、そこに、意味を与えたんですね。
ただ、一杯のお茶。
ペットボトルで飲んだって、パックのお茶だって、出がらしだって、100g何万円もする高級茶だって、お茶。
ただ、のどの渇きを潤すためにあります。
生命に不可欠だから。
でも、寝たきりのご老人のように、鼻から管を入れて、流動食や点滴という、水分摂取をする生き方もあります。
でも、一杯のお茶。
利休は、せっかくのお茶だから、精一杯のおもてなしをしようと、そのお茶に心を込めただけですね。
春には春。
夏には夏。
秋には秋。
冬には冬。
そして、それぞれのお客さんにあわせて、最高の一杯を提供しようと思った。
「ああ、おいしい」
その笑顔を観たいだけ。
お茶によって、なにか徳をしよう。
そんなことは考えていない。
考えているのは、まねっこの「へうげもの」の古田織部だ(笑)。
織部は、本当の意味での茶の湯の世界を感じ取るまでには、相当、苦労を重ねたらしい。
利休が、一輪挿しから落ちた花を、そのままにしたように、ありのまま。
でも、それが、一番、難しい。
与謝蕪村の句です。
「菜の花や月は東に日は西に」
何も、意図するものはない。
ありのまま。
それを、句に詠んだんですね。
さあ、もう一度、自分の目の前にあるものを、素直に見つめてみましょう。
誰かに、何かを言われたから、それが、変わるんでしょうか?
誰かに、背中を押して貰ったら、突然、ポジティヴなものになるんですか?
誰かに、否定されたら、突然、ネガティヴなものに変化してしますんですか?
そなんに、都合の良いものですか?
ありのまま。
それが、一番なんですね。
前に、老子の言葉を紹介しました。
「上善如水」
「おお、神さま!
私は、どうすればいいんでしょう?」
なんて、都合の良い質問には、残念ながら、答えてくれません。
正しい、お願いの仕方があります。
「こんなことやってみたい!」
そう訊くんです。
もう一歩進んで。
「私は、こんな(理想の)人間だ!」
最終局面!
「私は、幸せ!」
あなたは、思った通りの自分になれます。
だって、そういうことになってるんです。
いや、別に、なりたくないと思ってもいいですよ。
それだって、みんな、受け入れてくれます。
そんな、あなたになれます。
でも、どうせなら……。
本当に、人間って、めんどうくさい(笑いだニャア)!
僕は、いつも自由だもん。
昔は、もっと、自由だったのにね。
物事は、中立です。
一杯の水。
これは、ただの一杯の水です。
それだけです。
それに、意味を与えたのは、私たち自身に他なりません。
「もう、半分しかない」
そんな風に、ネガティヴに捉えることもできます。
「まだ、半分ある」
と言った具合に、ポジティヴに捉えることだってできます。
それは、水自体がそうしているのではないですよね。
意味を与えたのは、私たち自身です。
もし、おなか一杯なら、「まだ半分も残っているよ」ですね。
もし、熱い日差しの下を長い時間歩いてきて、のどが渇いていて居たら、「半分しかない」ですね。
あれ、シチュエーションが変われば、ポジティヴとネガティヴが反転してしまいました。
変ですね。
水は、ただ流れてきて。
そこにいるだけです。
凍れば、スキーやスノーボードにだって使えますね。
何度も、書いたと思います。
物事は中立。
だって、水に、心はありません。
なにかを押し流してやろうとかいう、ネガティヴな意志は持っていないんです。
田畑を潤してやろうなんて、ポジティヴな意思も持っていないんです。
水は、ただ、流れるだけ。
人間って、面倒くさい!
考えすぎ!
さあ、一杯のお茶があります。
茶の湯の創始者の千利休は、そこに、意味を与えたんですね。
ただ、一杯のお茶。
ペットボトルで飲んだって、パックのお茶だって、出がらしだって、100g何万円もする高級茶だって、お茶。
ただ、のどの渇きを潤すためにあります。
生命に不可欠だから。
でも、寝たきりのご老人のように、鼻から管を入れて、流動食や点滴という、水分摂取をする生き方もあります。
でも、一杯のお茶。
利休は、せっかくのお茶だから、精一杯のおもてなしをしようと、そのお茶に心を込めただけですね。
春には春。
夏には夏。
秋には秋。
冬には冬。
そして、それぞれのお客さんにあわせて、最高の一杯を提供しようと思った。
「ああ、おいしい」
その笑顔を観たいだけ。
お茶によって、なにか徳をしよう。
そんなことは考えていない。
考えているのは、まねっこの「へうげもの」の古田織部だ(笑)。
織部は、本当の意味での茶の湯の世界を感じ取るまでには、相当、苦労を重ねたらしい。
利休が、一輪挿しから落ちた花を、そのままにしたように、ありのまま。
でも、それが、一番、難しい。
与謝蕪村の句です。
「菜の花や月は東に日は西に」
何も、意図するものはない。
ありのまま。
それを、句に詠んだんですね。
さあ、もう一度、自分の目の前にあるものを、素直に見つめてみましょう。
誰かに、何かを言われたから、それが、変わるんでしょうか?
誰かに、背中を押して貰ったら、突然、ポジティヴなものになるんですか?
誰かに、否定されたら、突然、ネガティヴなものに変化してしますんですか?
そなんに、都合の良いものですか?
ありのまま。
それが、一番なんですね。
前に、老子の言葉を紹介しました。
「上善如水」
「おお、神さま!
私は、どうすればいいんでしょう?」
なんて、都合の良い質問には、残念ながら、答えてくれません。
正しい、お願いの仕方があります。
「こんなことやってみたい!」
そう訊くんです。
もう一歩進んで。
「私は、こんな(理想の)人間だ!」
最終局面!
「私は、幸せ!」
あなたは、思った通りの自分になれます。
だって、そういうことになってるんです。
いや、別に、なりたくないと思ってもいいですよ。
それだって、みんな、受け入れてくれます。
そんな、あなたになれます。
でも、どうせなら……。
本当に、人間って、めんどうくさい(笑いだニャア)!
僕は、いつも自由だもん。
昔は、もっと、自由だったのにね。