またまた、橋下さんが発端。
色々な意味で、話題を提供してくれる。
「橋下市長「子どもに害与える」水準達しない進級」
(読売新聞 2月23日(木)2時5分配信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120223-00000071-yom-pol
小中学校でも、留年をという話である。
大学では当たり前。
出席が足りない。
テストの点が悪いので、単位が取れない。
自動的に留年になる。
自動車教習所。
仮免試験でも、卒業試験でも、どんどん落ちる。
ある意味、留年である。
これを、義務教育に拡大をしていいのか?
そこが、問題である。
大学生は、ある意味、大人である。
アイデンティティを確立する大事な時代ではあるが、それは、貴重な人生勉強となるはずだ。
でも、小学生……。
小学1年生に、これが、そのまま通用するか?
まだ、親の庇護を必要とする。
この時期の1年の遅れは、その後の人生にどのような影響を及ぼすのか?
そこまで、考える必要がある。
というのが、ネガティブに考えた話。
さて、私は、ポジティヴ・シンキングである。
たとえば、アメリカの教育制度。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国の教育
飛び級などが認められている。
日本だってあるはずなのだが、みんな横並びが大好きな国民性では、なかなか聞いた事がない。
アメリカは実力主義であるから、10歳で大学生なんてもありである。
これは、ある意味、大歓迎。
ただし、日本人の考え方のシフトが前提という事を忘れてはならない。
だって、日本人は、劣ったものには同情心を発揮する。
でも、飛び抜けたものには、やっかみを発揮する変な国民性だ。
さて、ここで、留年、と、ネガティヴに考えるからいけない。
学年自由制、と、ポジティヴに考えればいい。
簡単な事である。
自動車教習所方式だ。
ある勉強をマスターすれば、次のステップに進める。
みんな、自分のペースでやればいい。
出来る子だって、出来ない子だっているのだから、それぞれの学力に合わせていけばいいじゃないか。
もし、すべての国民の意識がグローバルに拡大すれば、可能だし、もっとも、理想的だ。
大学では普通だ。
最近は、社会人入学生も居る。
うちの短大では、最高年齢は36歳。
これが、18~19歳で入学してきた学生さんと一緒に学んでいる。
欧米では、コミュニティカレッジ全盛だから、社会人の大学生は星の数ほど居る。
前にいた大学では、息子が医学部を受験するので、お父さんも一緒にやってみようという事で受験したら、歯学部に合格してしまった。
親子で机を並べる。
素晴らしい事だと思う。
だから、ネガティヴに留年と考えない。
ポジティヴに、出来る子を先に行かせると考えればいい。
簡単な事だ。
その方が、留年制よりも、簡単なはずだ。
世論も納得する。
実際、学年制なんてない環境がある。
前に、NHKのプロフェッショナルに出た、昭和大学病院の院内学級の副島さんのところ。
テレビドラマにもなった、安曇野の子ども病院の「電気が切れるまで」。
入院中だから、小学生から中学生までのさまざまな子供たちを、院内で教育する。
同じ部屋。
分校だってそうだ。
ひとつの教室に、複数の学年が一緒に勉強する。
ここでは、素晴らしい事が生まれる。
横だけのつながりではなくて、縦のつながりも生まれる。
昔の、ガキ大将が下は乳飲み子まで面倒みたように、貴重な人生経験が出来ると思う。
さて、ドイツを中心に行われているこんな教育がある。
シュタイナー教育という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シュタイナー教育
日本にもある。
学校法人として文部科学省に認可されているのは、
・学校法人シュタイナー学園初等部・中等部(神奈川県相模原市)
・学校法人北海道シュタイナー学園(いずみの学校)(北海道虻田郡豊浦町)である。
他にも、いくつかの小学校や幼稚園がある。
数年前には、新潟日報でも特集連載記事が掲載された。
遠くにあるかなと思ったら、短大の同僚の先生、二人が、それぞれのお子さんをこのシュタイナー小学校に入れていたそうである。
世の中は狭いものである。
ここでは、日本のみんな一緒という画一性の教育とは、全く違った教育が行われている。
あるとき、一本の線を引く。
色々な線を引く。
力の入れ方、ペンの種類、色等々、ひとつの線でも色々な引き方がある事を学ぶ。
同じ教室で、それぞれが違った事を勉強している。
ある子どもは本を読み、ある子どもは算数を、そして、別の子は絵を描く。
個性を伸ばす。
これが、教育なのである。
その中で、子供たちは、自信を付けていく。
お互いを理解できるようになる。
ナンバーワンではなくて、みんな違った個性を持ったオンリーワンなのである。
その事を知れば、いじめもない。
変な競争心も生まれない。
劣等感も、落ちこぼれも生まれない。
あたりまえの事だ。
ただし、ここにハードルがある。
教育者が、柔軟でなければならない。
私など、「お宅の子がいると、授業がすすまないんですが!」と、いつも言われ続けてきた(笑)。
小学校の1,2年生の時の女性の担任の先生に、何度、ヒステリーを起こさせた事か(大笑)。
教育者にも、考え方のシフトと、トレーニングが必要になる。
ただ、日本だけを考えるという時代は終わっていると思う。
先日のセミナーでは、京都大学の事務局長も歴任した立命館アジア太平洋大学副学長の本間政雄さんのお話の中で、こんな事を言っていた。
「最近、京大ですら、海外留学する学生が減って居る」
日本人さん、せまい島国に閉じこもりますか?
理由は簡単らしい。
留学していると、就職戦線に取り残されてしまうのだ。
東京大学の提唱する9月入学。
いいのか、わるいのか?
答えが出るのは、数十年後?
物事には、多面性がある。
この教育論議。
良い結論が出る事を期待したい。
色々な意味で、話題を提供してくれる。
「橋下市長「子どもに害与える」水準達しない進級」
(読売新聞 2月23日(木)2時5分配信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120223-00000071-yom-pol
小中学校でも、留年をという話である。
大学では当たり前。
出席が足りない。
テストの点が悪いので、単位が取れない。
自動的に留年になる。
自動車教習所。
仮免試験でも、卒業試験でも、どんどん落ちる。
ある意味、留年である。
これを、義務教育に拡大をしていいのか?
そこが、問題である。
大学生は、ある意味、大人である。
アイデンティティを確立する大事な時代ではあるが、それは、貴重な人生勉強となるはずだ。
でも、小学生……。
小学1年生に、これが、そのまま通用するか?
まだ、親の庇護を必要とする。
この時期の1年の遅れは、その後の人生にどのような影響を及ぼすのか?
そこまで、考える必要がある。
というのが、ネガティブに考えた話。
さて、私は、ポジティヴ・シンキングである。
たとえば、アメリカの教育制度。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国の教育
飛び級などが認められている。
日本だってあるはずなのだが、みんな横並びが大好きな国民性では、なかなか聞いた事がない。
アメリカは実力主義であるから、10歳で大学生なんてもありである。
これは、ある意味、大歓迎。
ただし、日本人の考え方のシフトが前提という事を忘れてはならない。
だって、日本人は、劣ったものには同情心を発揮する。
でも、飛び抜けたものには、やっかみを発揮する変な国民性だ。
さて、ここで、留年、と、ネガティヴに考えるからいけない。
学年自由制、と、ポジティヴに考えればいい。
簡単な事である。
自動車教習所方式だ。
ある勉強をマスターすれば、次のステップに進める。
みんな、自分のペースでやればいい。
出来る子だって、出来ない子だっているのだから、それぞれの学力に合わせていけばいいじゃないか。
もし、すべての国民の意識がグローバルに拡大すれば、可能だし、もっとも、理想的だ。
大学では普通だ。
最近は、社会人入学生も居る。
うちの短大では、最高年齢は36歳。
これが、18~19歳で入学してきた学生さんと一緒に学んでいる。
欧米では、コミュニティカレッジ全盛だから、社会人の大学生は星の数ほど居る。
前にいた大学では、息子が医学部を受験するので、お父さんも一緒にやってみようという事で受験したら、歯学部に合格してしまった。
親子で机を並べる。
素晴らしい事だと思う。
だから、ネガティヴに留年と考えない。
ポジティヴに、出来る子を先に行かせると考えればいい。
簡単な事だ。
その方が、留年制よりも、簡単なはずだ。
世論も納得する。
実際、学年制なんてない環境がある。
前に、NHKのプロフェッショナルに出た、昭和大学病院の院内学級の副島さんのところ。
テレビドラマにもなった、安曇野の子ども病院の「電気が切れるまで」。
入院中だから、小学生から中学生までのさまざまな子供たちを、院内で教育する。
同じ部屋。
分校だってそうだ。
ひとつの教室に、複数の学年が一緒に勉強する。
ここでは、素晴らしい事が生まれる。
横だけのつながりではなくて、縦のつながりも生まれる。
昔の、ガキ大将が下は乳飲み子まで面倒みたように、貴重な人生経験が出来ると思う。
さて、ドイツを中心に行われているこんな教育がある。
シュタイナー教育という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シュタイナー教育
日本にもある。
学校法人として文部科学省に認可されているのは、
・学校法人シュタイナー学園初等部・中等部(神奈川県相模原市)
・学校法人北海道シュタイナー学園(いずみの学校)(北海道虻田郡豊浦町)である。
他にも、いくつかの小学校や幼稚園がある。
数年前には、新潟日報でも特集連載記事が掲載された。
遠くにあるかなと思ったら、短大の同僚の先生、二人が、それぞれのお子さんをこのシュタイナー小学校に入れていたそうである。
世の中は狭いものである。
ここでは、日本のみんな一緒という画一性の教育とは、全く違った教育が行われている。
あるとき、一本の線を引く。
色々な線を引く。
力の入れ方、ペンの種類、色等々、ひとつの線でも色々な引き方がある事を学ぶ。
同じ教室で、それぞれが違った事を勉強している。
ある子どもは本を読み、ある子どもは算数を、そして、別の子は絵を描く。
個性を伸ばす。
これが、教育なのである。
その中で、子供たちは、自信を付けていく。
お互いを理解できるようになる。
ナンバーワンではなくて、みんな違った個性を持ったオンリーワンなのである。
その事を知れば、いじめもない。
変な競争心も生まれない。
劣等感も、落ちこぼれも生まれない。
あたりまえの事だ。
ただし、ここにハードルがある。
教育者が、柔軟でなければならない。
私など、「お宅の子がいると、授業がすすまないんですが!」と、いつも言われ続けてきた(笑)。
小学校の1,2年生の時の女性の担任の先生に、何度、ヒステリーを起こさせた事か(大笑)。
教育者にも、考え方のシフトと、トレーニングが必要になる。
ただ、日本だけを考えるという時代は終わっていると思う。
先日のセミナーでは、京都大学の事務局長も歴任した立命館アジア太平洋大学副学長の本間政雄さんのお話の中で、こんな事を言っていた。
「最近、京大ですら、海外留学する学生が減って居る」
日本人さん、せまい島国に閉じこもりますか?
理由は簡単らしい。
留学していると、就職戦線に取り残されてしまうのだ。
東京大学の提唱する9月入学。
いいのか、わるいのか?
答えが出るのは、数十年後?
物事には、多面性がある。
この教育論議。
良い結論が出る事を期待したい。