山田隆文の歯医者さん日記

 コミュニケーションって、なんなんでしょうか?

 コミュニケーションを取るのは、人間だけなんでしょうか?

 ちょっと前に、こんな記事がありました。

「チンパンジー:「助けて」「これ使ったら」 頼まれれば手助け--京大霊長類研」
 http://mainichi.jp/select/science/news/20120207ddm041040113000c.html

 2匹のチンパンジーです。
 それぞれ、別のゲージに入れられています。
 でも、間をつなぐ窓があります。
 片方のゲージには、長い棒。
 もう一方のゲージの前には、ジュースが置かれています。
 でも、手を伸ばしても届きません。
 棒があれば届きます。
 ジュースの前のチンパンジーが、「棒を貸して」とコミュニケーションを取ると、もう一方のチンパンジーが棒を渡しました。
 そうして、始めのチンパンジーがジュースにありつきます。

 でも、と続きます。
 何もメッセージを発しなければ、自発的には棒を渡しません。
 記事は、「おせっかいは焼かない」と伝えています。

 それに比べて、人間は、おせっかいの連続ですが……(困)。

 コミュニケーション。
 communication。
 語源はこうです。
 common。
 「共通の」という意味ですね。
 ですから、コミュニケーションを取るには、共通の何らかの手段(言葉だけとは言いません)が必要だという事になります。
 commune。
 パリの自治権を与えられていた都市をこう呼びます。
 つまり、「共同体」です。
 ですから、共通の認識を持った人たちの集まりです。

 聖書を紐解くと、バベルの塔では、思い上がった人間を懲らしめるために、神様が、言葉を変えてしまいました。
 と、それぞれが、コミュニケーションを取れなくなってしまったという逸話があります。

 現在は、学校教育で小学校から英語を教える時代ですし、海外旅行も当たり前の時代になってきましたし、世界中の人とホームページやツイッターやフェイスブックでお友達になれる時代ですので、言葉の壁は無くなってきたかもしれませんが……。

 さて、この「共通の」というところに、実は、目に見えないハードルがあります。

 それは、言葉の壁だけではありません。
 種の壁でもありません。

 それは、その人の生育歴の壁です。
 その人の、アイデンティティの壁です。
 その人の、価値観の壁です。
 その人の属する、コミュニティの壁です。

 気が付かないようですが、これが、結構、やっかいなんです。

 1つの例です。
 まずは、生育歴から考察をしてみましょう。
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 「犬」

 と、きいたときに、どんな「犬」を思い浮かべるでしょうか?

 私たちが、「犬」を認識するためには、私たちの言語発達を考える必要があります。
 私たちが、はじめて目にした「犬」はどのようなものだったでしょうか?
 生まれました。
 お父さんやお母さんが、「犬」のぬいぐるみを買ってきてくれました。
 「ほら、わんわんだよ」
 まず、毛むくじゃらの、四つ足のぬいぐるみが、「わんわん」であると認識をします。
 やがて、もの心が付いてきます。
 幸いな事に、家で「犬」を飼っています。
 と、「犬」が来て、あなたの顔をぺろぺろとなめました。
 生温かい感触です。
 毛むくじゃらの顔が「はっはっ!」とあなたの顔に息を吹きかけます。
 触ると柔らかいです。
 肉球の感触もいいです。
 でも、つねると、「ワン」と吠えられました。
 そして、視覚と触覚と言葉とが一致していきます。
 そして、あなたは、「犬」というイメージを作り上げました。

 でも、「犬」と言われたとき、あなたの頭の中に映像を結ぶ「犬」のイメージは、千差万別のはずです。

 これが、ギャップの第一歩です。

 同じ「犬」でもギャップがあるのに、私たち人間は、もっと複雑で、抽象的な概念を、コミュニケーションしなくてはなりません。
 というところで、たくさんの誤謬が生まれてきます。
 そのギャップをどこまで埋められるか?
 しばらく、おつきあい下さい。