私たちの<感情>の旅も終焉間近になってきました。
<感情>の最後を飾るのは<悟り>です。
<悟り>というと、なんだか、難しい世界のように感じてしまうかもしれません。
でも、そんなに遠くにあるのでしょうか?
確かに、お釈迦様は、30歳で出家し、バラモンの厳しい修行を続けました。
針の上に座ったり、水業をしたり、断食をしたり。
確かに、イエス・キリストも、子供の時にエジプトに逃れ、30歳で帰ってきて、イニシエーションを受けました。
神殿の前でお金を儲けている商人達に切れてしまったことだってあります。
お釈迦様だって、女房と生まれたばかりの子供を捨てて、旅立ってしまいます。
みんな、悩んで大きくなります。
道教の仙人になる修行を観ているだけでも、ご遠慮したくなります。
ときどき、テレビで放映をしている奈良の山上ヶ岳の西ののぞきの修行はいかがでしょうか?
私の大好きな山歩きだって、槍ヶ岳の立山も剣岳もみんな、昔は、修行の場でした。
そこまで修行をしなければ、<悟り>は難しいのでしょうか?
みなさんに、出家してください。
みなさんに、牧師さんや尼さんになってください。
みなさんに、巫女さんになってください。
そんなことをお願いしているのではありません。
それでは、ここまで書いてきた甲斐がないというものですね。
もっと、わかりやすく、<感情>というものを考えてみたい。
それが、目的です。
仏陀は、長い修行の末に悟りを開いたのでしょうか?
彼は、多くの先人達の教えを受け、苦行にも専念ました。
でも、確かな悟りを得られませんでした。
そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴しました。
そのとき、村娘スジャータから乳粥の供養(くよう)を受けます。
お釈迦様は「はっと」したんです。
何かに、気がついたんですね。
それは、一杯のかゆでした。
彼は、なんの欲もなくただ差し出された一杯のかゆの中に、悟りを見つけました。
悟りは、難行苦行の果てにあるのでありません。
世俗を捨てて、仏門に入ったり、修道院に籠もったり、山奥で暮らしたり……。
そんなところをいくら探しても、悟りはありませんでした。
悟りは、目の前にあったんですね。
目を開けば、気がつけば、ちゃんと用意してあったんです。
「はっ!」と気づいた瞬間。
それこそが、<悟り>の瞬間でした。
だから!
もし、「私は偉いんだ!」なんてのたまわっているひとがいたら、それは、偽物です。
あなたを「<悟り>の世界に導いてあげよう」、なんてあなたに優しくささやきかけてくる人がいたら、その人は、イエス・キリストやブッダの前に現れて惑わせようとした悪魔に他なりません。
本当の悟りを開いた人は、そんなところにはいません。
たとえば、「食べて祈って恋をして」のバリ島のグルのように、実は、あなたのすぐそばにいるかもしれません。
あなたの周りにも、たくさんいるかもしれません。
でも、気づかないだけなんですね。
あなたに気づきを与えてくれる存在は、様々な姿に形を変えて現れてきます。
ときには、愛する者として。
ときには、あなたに害を与える(一見そう見えるかもしれませんが……)者として。
そのとき、あなたは、様々な<感情>を感じました。
それこそが、あたなの学びの機会です。
そこから、あなたは何かを「ひらめき」ました。
一瞬の気づきですね。
その瞬間、瞬間が、あなたの<悟り>です。
たとえば、観世音菩薩は、相手によって様々姿になります。
三十三の姿を持っているとも言われます。
お寺を守る仁王像は、憤怒の顔をしています。
なんのために、あんな怖い顔をしているのでしょうか?
考えてみたことがありますか?
さあ、ひらめきは、どんないいことを与えてくれるのでしょうか?
アメリカのセドナにあるベルロックです。
昔、バカンスでここを訪れたウォルト・ディズニーは、この山々を観て、ディズニーランドにあるビックサンダーマウンテンを思いつきました。
アインシュタインも、ニュートンも、ガリレオも、何気ない物事のなかから真実を見つけました。
でも、イエス・キリストやお釈迦様や、アインシュタインや、ウォルト・ディズニーや、スティーブ・ジョブズたちと、わたしたちは何が違うのでしょうか?
イエス・キリストやお釈迦様は、この、「はっ!」とした瞬間を、永遠に留めておくことができました。
わたしなど、三歩歩いただけで忘れてしまいます。
アインシュタインや、ウォルト・ディズニーや、スティーブ・ジョブズたちは、そのひらめきを形にすることができました。
わたしなど、(あしたやろう)なんて思っているうちに、タイミングを逃してしまいます。
私たちが、何かを求めている時、答えはそこにあります。
聖書はこう言っていますね。
「求めよ、さらば、あたえられん」
裏返せば、こうです。
「逃げよ、さらば、何にも得られないよ!」
さあ、あなたの目の前に人生というサンドバッグがあります。
これを、難行苦行と考えますか?
それとも、プレステの人生ゲームと考えますか?
大丈夫。
アイテムは、ちゃんと用意されています。
あなたが、気づくのを待っています。
モーツアルトは、作曲する時に、あたまの中で音楽が鳴り響いていたそうです。
それを、書き留めるのが間に合わない。
あたなも、「はっ!」としたとき、アイディアがどこからともなくあふれてきます。
あなたの周りにも、創造の天使はちゃんといるんです。
あなたが望めば、あなたが必要とするエネルギーも、答えも、ちゃんと用意されています。
さあ、<感情>の旅。
いかがだったでしょうか?
ようやく、良い新年が迎えられそうですね。
<感情>の最後を飾るのは<悟り>です。
<悟り>というと、なんだか、難しい世界のように感じてしまうかもしれません。
でも、そんなに遠くにあるのでしょうか?
確かに、お釈迦様は、30歳で出家し、バラモンの厳しい修行を続けました。
針の上に座ったり、水業をしたり、断食をしたり。
確かに、イエス・キリストも、子供の時にエジプトに逃れ、30歳で帰ってきて、イニシエーションを受けました。
神殿の前でお金を儲けている商人達に切れてしまったことだってあります。
お釈迦様だって、女房と生まれたばかりの子供を捨てて、旅立ってしまいます。
みんな、悩んで大きくなります。
道教の仙人になる修行を観ているだけでも、ご遠慮したくなります。
ときどき、テレビで放映をしている奈良の山上ヶ岳の西ののぞきの修行はいかがでしょうか?
私の大好きな山歩きだって、槍ヶ岳の立山も剣岳もみんな、昔は、修行の場でした。
そこまで修行をしなければ、<悟り>は難しいのでしょうか?
みなさんに、出家してください。
みなさんに、牧師さんや尼さんになってください。
みなさんに、巫女さんになってください。
そんなことをお願いしているのではありません。
それでは、ここまで書いてきた甲斐がないというものですね。
もっと、わかりやすく、<感情>というものを考えてみたい。
それが、目的です。
仏陀は、長い修行の末に悟りを開いたのでしょうか?
彼は、多くの先人達の教えを受け、苦行にも専念ました。
でも、確かな悟りを得られませんでした。
そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴しました。
そのとき、村娘スジャータから乳粥の供養(くよう)を受けます。
お釈迦様は「はっと」したんです。
何かに、気がついたんですね。
それは、一杯のかゆでした。
彼は、なんの欲もなくただ差し出された一杯のかゆの中に、悟りを見つけました。
悟りは、難行苦行の果てにあるのでありません。
世俗を捨てて、仏門に入ったり、修道院に籠もったり、山奥で暮らしたり……。
そんなところをいくら探しても、悟りはありませんでした。
悟りは、目の前にあったんですね。
目を開けば、気がつけば、ちゃんと用意してあったんです。
「はっ!」と気づいた瞬間。
それこそが、<悟り>の瞬間でした。
だから!
もし、「私は偉いんだ!」なんてのたまわっているひとがいたら、それは、偽物です。
あなたを「<悟り>の世界に導いてあげよう」、なんてあなたに優しくささやきかけてくる人がいたら、その人は、イエス・キリストやブッダの前に現れて惑わせようとした悪魔に他なりません。
本当の悟りを開いた人は、そんなところにはいません。
たとえば、「食べて祈って恋をして」のバリ島のグルのように、実は、あなたのすぐそばにいるかもしれません。
あなたの周りにも、たくさんいるかもしれません。
でも、気づかないだけなんですね。
あなたに気づきを与えてくれる存在は、様々な姿に形を変えて現れてきます。
ときには、愛する者として。
ときには、あなたに害を与える(一見そう見えるかもしれませんが……)者として。
そのとき、あなたは、様々な<感情>を感じました。
それこそが、あたなの学びの機会です。
そこから、あなたは何かを「ひらめき」ました。
一瞬の気づきですね。
その瞬間、瞬間が、あなたの<悟り>です。
たとえば、観世音菩薩は、相手によって様々姿になります。
三十三の姿を持っているとも言われます。
お寺を守る仁王像は、憤怒の顔をしています。
なんのために、あんな怖い顔をしているのでしょうか?
考えてみたことがありますか?
さあ、ひらめきは、どんないいことを与えてくれるのでしょうか?
アメリカのセドナにあるベルロックです。
昔、バカンスでここを訪れたウォルト・ディズニーは、この山々を観て、ディズニーランドにあるビックサンダーマウンテンを思いつきました。
アインシュタインも、ニュートンも、ガリレオも、何気ない物事のなかから真実を見つけました。
でも、イエス・キリストやお釈迦様や、アインシュタインや、ウォルト・ディズニーや、スティーブ・ジョブズたちと、わたしたちは何が違うのでしょうか?
イエス・キリストやお釈迦様は、この、「はっ!」とした瞬間を、永遠に留めておくことができました。
わたしなど、三歩歩いただけで忘れてしまいます。
アインシュタインや、ウォルト・ディズニーや、スティーブ・ジョブズたちは、そのひらめきを形にすることができました。
わたしなど、(あしたやろう)なんて思っているうちに、タイミングを逃してしまいます。
私たちが、何かを求めている時、答えはそこにあります。
聖書はこう言っていますね。
「求めよ、さらば、あたえられん」
裏返せば、こうです。
「逃げよ、さらば、何にも得られないよ!」
さあ、あなたの目の前に人生というサンドバッグがあります。
これを、難行苦行と考えますか?
それとも、プレステの人生ゲームと考えますか?
大丈夫。
アイテムは、ちゃんと用意されています。
あなたが、気づくのを待っています。
モーツアルトは、作曲する時に、あたまの中で音楽が鳴り響いていたそうです。
それを、書き留めるのが間に合わない。
あたなも、「はっ!」としたとき、アイディアがどこからともなくあふれてきます。
あなたの周りにも、創造の天使はちゃんといるんです。
あなたが望めば、あなたが必要とするエネルギーも、答えも、ちゃんと用意されています。
さあ、<感情>の旅。
いかがだったでしょうか?
ようやく、良い新年が迎えられそうですね。