さあ、始めて、自分の<感情>を他の人のために使います。
<同情>です。
でも、ただ、<同情>するだけでは、相手の<依存心>を引き出してしまいます。
「同情するなら、金をくれ!」
と言われても困ります。
さあ、迷えるありさんがいます。
もし、あなたが、その迷えるありさんと同じところに行ったらどうなると思いますか?
<同情>の距離感はどういうことになるのでしょうか?
凄く近いです。
そして、相手のテリトリーに入り込んでしまいます。
相手にしがみつかれてしまいます。
相手の、重い感情に、引っ張られます。
引きずり込まれます。
当然、冷静な判断はできなくなります。
と、どうなるでしょうか?
道に迷っている人と、一緒に道に迷ってしまうようなものです。
隣の原始人さんが、いつも、あなたのマンモスをあてにしていたらどうでしょうか?
扶養家族が増えすぎです。
マンモスくらいならいいんですが……
重い感情を、いつも、「一緒に悩んで!」なんて……
解決できると思いますか?
気が付いたら、あなたも、感情の迷路に入り込んでいます。
一緒に、崖に落ちたいですか?
一緒に迷いたいですか?
一緒に、悩みますか?
同情の距離感は、相手の側に入り込みすぎてしまうことにあります。
と、冷静な判断力が失われます。
ネガティブな感情というのは、私たちが油断をしていると、罠にはまりやすいんです。
やくざや悪魔の常套手段です。
「おまえに力を与えよう、その代わり、地獄ではおまえの魂は私のものだ!」
「おまえの、家族がどうなってもいいのか?」
自尊心と慢心と、恐怖や不安を秤にかけます。
でも、地獄のえんま様はお見通しですよ!
べろを引っこ抜かれないように気をつけてくださいね。
(って、私は口腔外科医ですので、べろを引っこ抜いてきましたが……(笑&謝))
さて、同情まできました。
少し、似た言葉がありますね。
<同感>といいます。
<同感>って、どんな感じでしょうか?
同情は、相手の感情を感じています。
でも、<同感>はこんな風に使いますね。
「わたし、こう思うのよ!」
「そうね、わたしも、同感同感!」
<同感>というのは、あくまでも、表面的なもので、感情はこもっていないのですね。
<同情>と<同感>は似て非なるものなんです。
さあ、地獄には、こんな人もいます。
お地蔵さんです。
正式には、地蔵菩薩、サンスクリット語ではクシティ・ガルバ。
お地蔵さんは、本来は仏になる力を持ちながら、あえて仏となることを断ったのです。
なぜって、地獄で苦しんでいる人々を観てしまったんです。
自分だけ、仏になっていいのか?
一つの方法は、自ら仏となって、お釈迦様のように、お手本を示すことです。
でも、イエス・キリストのように、自ら磔になることで、人々の罪を背負う生き方もあります。
彼はこう言いましたね。
「みんなは、許されたんだよ」って。
だから、お地蔵さんは、自らの意志で人の身のまま地獄に落ちたんです。
すべての苦悩と、さ迷い続ける魂を救おうとしたんですね。
お地蔵さんは、こう決意をしました。
「すべての人が地獄から極楽へ行くまで、私は地獄から出ません」
そうなんです。
すべての魂を救ってから、一番最後に仏になりますって、決心したんですね。
これは、<同情>でしょうか?
だって、お地蔵さんは、自分を見失っていません。
自分の意志で、地獄を旅しています。
有名なお話しがありますね。
賽の河原で、三途の川を渡れない子供たちが石を積んでいます。
すると鬼が来て、その石積みを壊してしまいます。
子供たちは、石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされます。
でも、そのときに、子供を守ってあげるのがお地蔵さんです。
えっ?
あなたも感情の地獄で迷っているって?
ネガティブな感情が、あなたのこころの石積みを壊してしまうんですか?
では、このブログで、私が最後までお付き合いをしましょう(笑)。
<同情>です。
でも、ただ、<同情>するだけでは、相手の<依存心>を引き出してしまいます。
「同情するなら、金をくれ!」
と言われても困ります。
さあ、迷えるありさんがいます。
もし、あなたが、その迷えるありさんと同じところに行ったらどうなると思いますか?
<同情>の距離感はどういうことになるのでしょうか?
凄く近いです。
そして、相手のテリトリーに入り込んでしまいます。
相手にしがみつかれてしまいます。
相手の、重い感情に、引っ張られます。
引きずり込まれます。
当然、冷静な判断はできなくなります。
と、どうなるでしょうか?
道に迷っている人と、一緒に道に迷ってしまうようなものです。
隣の原始人さんが、いつも、あなたのマンモスをあてにしていたらどうでしょうか?
扶養家族が増えすぎです。
マンモスくらいならいいんですが……
重い感情を、いつも、「一緒に悩んで!」なんて……
解決できると思いますか?
気が付いたら、あなたも、感情の迷路に入り込んでいます。
一緒に、崖に落ちたいですか?
一緒に迷いたいですか?
一緒に、悩みますか?
同情の距離感は、相手の側に入り込みすぎてしまうことにあります。
と、冷静な判断力が失われます。
ネガティブな感情というのは、私たちが油断をしていると、罠にはまりやすいんです。
やくざや悪魔の常套手段です。
「おまえに力を与えよう、その代わり、地獄ではおまえの魂は私のものだ!」
「おまえの、家族がどうなってもいいのか?」
自尊心と慢心と、恐怖や不安を秤にかけます。
でも、地獄のえんま様はお見通しですよ!
べろを引っこ抜かれないように気をつけてくださいね。
(って、私は口腔外科医ですので、べろを引っこ抜いてきましたが……(笑&謝))
さて、同情まできました。
少し、似た言葉がありますね。
<同感>といいます。
<同感>って、どんな感じでしょうか?
同情は、相手の感情を感じています。
でも、<同感>はこんな風に使いますね。
「わたし、こう思うのよ!」
「そうね、わたしも、同感同感!」
<同感>というのは、あくまでも、表面的なもので、感情はこもっていないのですね。
<同情>と<同感>は似て非なるものなんです。
さあ、地獄には、こんな人もいます。
お地蔵さんです。
正式には、地蔵菩薩、サンスクリット語ではクシティ・ガルバ。
お地蔵さんは、本来は仏になる力を持ちながら、あえて仏となることを断ったのです。
なぜって、地獄で苦しんでいる人々を観てしまったんです。
自分だけ、仏になっていいのか?
一つの方法は、自ら仏となって、お釈迦様のように、お手本を示すことです。
でも、イエス・キリストのように、自ら磔になることで、人々の罪を背負う生き方もあります。
彼はこう言いましたね。
「みんなは、許されたんだよ」って。
だから、お地蔵さんは、自らの意志で人の身のまま地獄に落ちたんです。
すべての苦悩と、さ迷い続ける魂を救おうとしたんですね。
お地蔵さんは、こう決意をしました。
「すべての人が地獄から極楽へ行くまで、私は地獄から出ません」
そうなんです。
すべての魂を救ってから、一番最後に仏になりますって、決心したんですね。
これは、<同情>でしょうか?
だって、お地蔵さんは、自分を見失っていません。
自分の意志で、地獄を旅しています。
有名なお話しがありますね。
賽の河原で、三途の川を渡れない子供たちが石を積んでいます。
すると鬼が来て、その石積みを壊してしまいます。
子供たちは、石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされます。
でも、そのときに、子供を守ってあげるのがお地蔵さんです。
えっ?
あなたも感情の地獄で迷っているって?
ネガティブな感情が、あなたのこころの石積みを壊してしまうんですか?
では、このブログで、私が最後までお付き合いをしましょう(笑)。