感情の距離感について書いた。
実は、それ以外のところにも、たくさんある。
物事を、どの視点から見ているのか?
物事は、中立である。
たとえば、富士山がある。
富士山は富士山である。
どこから観ても富士山である。
でも、東京から観たのと、静岡から観たのと、富士五湖方面から観たのと、そして、飛行機に乗って上空から観たのと……。
どれも真実。
さて、一つの例として教育を挙げてみたい。
<レベル1>
教育をする。
教育をすることに一生懸命である。
試験の採点をする。
合格と、落第を付けた。
おしまいである。
でも、自分だけの視点で見ている。
気になるのは、自分の教科だけ。
全体のバランスは見えない。
だから、たとえば、宿題を出した。
他の授業のことは知らないから、どの宿題の負担が、学生にとってどれくらいの負担のものかは把握できない。
ただ、教える。
でも、伝わったのか?
初めての講義は、緊張でいっぱいだったに違いない。
でも、ある日、「あたしの講義は素晴らしい!」と思い始める。
学生の授業評価アンケートなるものがある。
と、その結果をもらって、切れる。
「どうして、学生にあたしのことを評価できるの?
アンケートの作り方が悪いんじゃない?」
このレベルでは、自分の教科しか見えない。
授業を聴くのはよい子、授業中に携帯を観たり、内職をする子は悪い子である。
そんな先生は、そういった子達を見て、こう言う。
「躾ければいいのよ!」
会議の席上でも、学科全体のカリキュラムの話をしているのに、その教員の意見は、自分の担当の科目のことだけである。
こんなことを吐いてしまった教員も居る。
「俺が、教えてやってるのに!」
教育は、あくまでも自分の都合である。
教育方針は、自分のメンツの維持だ。
半径1メートルの教育だ。
富士山の目の前の岩しか観てない。
自分の立ち位置を、なかなか理解することができない。
でも、上からの命令には従うので、一見、上から見ていると良い先生だ。
そのくせ、自分より弱い学生には、強気で出る。
実は、このレベルにとどまっている教員が非常に多い。
<レベル2>
ある日、学生には、たくさんの教科のあることに気づく。
漸く、全体像が見えてくる。
自分の教えている科目が、学科全体の中で、どのような位置にあるのか。
どんな意味があるのか?
バランスが取れるようになってくる。
自分が、今、富士山の何合目にいるのかを、漠然と把握できる。
でも、まだ、教員の視点で観ている。
<レベル3>
学生が、学んでいるのは、ただ単にカリキュラムに書かれた教科だけではない。
ただ、単に知識を詰め込めばいいのではない。
学生は、10代から20代へ至るために、たくさんの人生勉強をしてるのだということに気づく。
親の保護の元にあった高校生までと、これから、卒業をして社会に出て、一人で出て行くための間をつなぐ、重要な時期だ。
学ぶことはたくさんある。
ここで、彼らは、自分のアイデンティティを見つけていく。
「私は、こんな人間だ」と個性が確立していく。
このアイデンティティは、教員の押しつけるものではない。
もちろん、私は歯科医療系の短期大学にいるから、学生が身につけるのは、医療従事者として必要最低限のTPOがあることはもちろんである。
でも、教える方に、それが身についていなければ、どうやって、学生にお手本を示すのだろう?
このレベルの教員は、富士山を360度から眺める。
教育という富士山の3Dナビゲーションマップを持っている。
登山道は、たくさんある。
山小屋もたくさんある。
それぞれの学生が、どのルートで登るのが一番いいのだろう。
どの、山小屋で休めばいいのだろう。
学生のそれぞれの個性を元に、学習プランを組み立てていく。
教育ではなくて、学習である。
教員の立場ではなく、学ぶものの立場で観ている。
だから、レベル1の教員のように、こんな風には考えない。
「どうして、そんなことがわからないのよ!」
「ちゃんと、教えたでしょ!」
本当に、みんなの前でこう言った教員が居るのだ!
「レベルを落として授業はできません!」
でも、ここまできたレベルの教員は、こう考える。
「学生が学びやすいように、登山道を整備しよう!」
実際、カリキュラムの改革に学生の意見が反映できる学校もある。
(もちろん医療系学科ではないので、ある程度自由には組めるのだが……)
それぞれの学生のレベルに合わせた教育を行うことができる。
臨機応変である。
教員が観ているのは、その学生の将来そのものである。
人生そのものである。
ただ単に、学生が自分のアイデンティティを創る手伝いをしているだけである。
自分が教えているのは、そのための1教科に過ぎないのだと言うことを知っている。
もう一度、整理してみる。
<レベル1>の教員
質問をすると、切れる。
「自分で調べろ!」なんて言う。
だって、知らないことは知らないという勇気も体面をとりつくろう方法もない。
<レベル2>の教員
頑張って、答えようとする。
<レベル3>の教員
答えは知っているけど、教えない。
その答えを導き出すためのヒントを学生に与えて、学生が自分で答えを見つけられるまで、
辛抱強く、じっと待つ。
もう一度、最後に、整理してみる。
<レベル1>の教員
1を聴いて、100を教えようとする。
<レベル2>の教員
100を学んで、100を教えようとする。
<レベル3>の教員
10000000000000000000……∞、を聴き・学び・探求し・模索し、
その中から、それぞれの学生が今、必要としている100だけを伝える。
さて……。
実は、それ以外のところにも、たくさんある。
物事を、どの視点から見ているのか?
物事は、中立である。
たとえば、富士山がある。
富士山は富士山である。
どこから観ても富士山である。
でも、東京から観たのと、静岡から観たのと、富士五湖方面から観たのと、そして、飛行機に乗って上空から観たのと……。
どれも真実。
さて、一つの例として教育を挙げてみたい。
<レベル1>
教育をする。
教育をすることに一生懸命である。
試験の採点をする。
合格と、落第を付けた。
おしまいである。
でも、自分だけの視点で見ている。
気になるのは、自分の教科だけ。
全体のバランスは見えない。
だから、たとえば、宿題を出した。
他の授業のことは知らないから、どの宿題の負担が、学生にとってどれくらいの負担のものかは把握できない。
ただ、教える。
でも、伝わったのか?
初めての講義は、緊張でいっぱいだったに違いない。
でも、ある日、「あたしの講義は素晴らしい!」と思い始める。
学生の授業評価アンケートなるものがある。
と、その結果をもらって、切れる。
「どうして、学生にあたしのことを評価できるの?
アンケートの作り方が悪いんじゃない?」
このレベルでは、自分の教科しか見えない。
授業を聴くのはよい子、授業中に携帯を観たり、内職をする子は悪い子である。
そんな先生は、そういった子達を見て、こう言う。
「躾ければいいのよ!」
会議の席上でも、学科全体のカリキュラムの話をしているのに、その教員の意見は、自分の担当の科目のことだけである。
こんなことを吐いてしまった教員も居る。
「俺が、教えてやってるのに!」
教育は、あくまでも自分の都合である。
教育方針は、自分のメンツの維持だ。
半径1メートルの教育だ。
富士山の目の前の岩しか観てない。
自分の立ち位置を、なかなか理解することができない。
でも、上からの命令には従うので、一見、上から見ていると良い先生だ。
そのくせ、自分より弱い学生には、強気で出る。
実は、このレベルにとどまっている教員が非常に多い。
<レベル2>
ある日、学生には、たくさんの教科のあることに気づく。
漸く、全体像が見えてくる。
自分の教えている科目が、学科全体の中で、どのような位置にあるのか。
どんな意味があるのか?
バランスが取れるようになってくる。
自分が、今、富士山の何合目にいるのかを、漠然と把握できる。
でも、まだ、教員の視点で観ている。
<レベル3>
学生が、学んでいるのは、ただ単にカリキュラムに書かれた教科だけではない。
ただ、単に知識を詰め込めばいいのではない。
学生は、10代から20代へ至るために、たくさんの人生勉強をしてるのだということに気づく。
親の保護の元にあった高校生までと、これから、卒業をして社会に出て、一人で出て行くための間をつなぐ、重要な時期だ。
学ぶことはたくさんある。
ここで、彼らは、自分のアイデンティティを見つけていく。
「私は、こんな人間だ」と個性が確立していく。
このアイデンティティは、教員の押しつけるものではない。
もちろん、私は歯科医療系の短期大学にいるから、学生が身につけるのは、医療従事者として必要最低限のTPOがあることはもちろんである。
でも、教える方に、それが身についていなければ、どうやって、学生にお手本を示すのだろう?
このレベルの教員は、富士山を360度から眺める。
教育という富士山の3Dナビゲーションマップを持っている。
登山道は、たくさんある。
山小屋もたくさんある。
それぞれの学生が、どのルートで登るのが一番いいのだろう。
どの、山小屋で休めばいいのだろう。
学生のそれぞれの個性を元に、学習プランを組み立てていく。
教育ではなくて、学習である。
教員の立場ではなく、学ぶものの立場で観ている。
だから、レベル1の教員のように、こんな風には考えない。
「どうして、そんなことがわからないのよ!」
「ちゃんと、教えたでしょ!」
本当に、みんなの前でこう言った教員が居るのだ!
「レベルを落として授業はできません!」
でも、ここまできたレベルの教員は、こう考える。
「学生が学びやすいように、登山道を整備しよう!」
実際、カリキュラムの改革に学生の意見が反映できる学校もある。
(もちろん医療系学科ではないので、ある程度自由には組めるのだが……)
それぞれの学生のレベルに合わせた教育を行うことができる。
臨機応変である。
教員が観ているのは、その学生の将来そのものである。
人生そのものである。
ただ単に、学生が自分のアイデンティティを創る手伝いをしているだけである。
自分が教えているのは、そのための1教科に過ぎないのだと言うことを知っている。
もう一度、整理してみる。
<レベル1>の教員
質問をすると、切れる。
「自分で調べろ!」なんて言う。
だって、知らないことは知らないという勇気も体面をとりつくろう方法もない。
<レベル2>の教員
頑張って、答えようとする。
<レベル3>の教員
答えは知っているけど、教えない。
その答えを導き出すためのヒントを学生に与えて、学生が自分で答えを見つけられるまで、
辛抱強く、じっと待つ。
もう一度、最後に、整理してみる。
<レベル1>の教員
1を聴いて、100を教えようとする。
<レベル2>の教員
100を学んで、100を教えようとする。
<レベル3>の教員
10000000000000000000……∞、を聴き・学び・探求し・模索し、
その中から、それぞれの学生が今、必要としている100だけを伝える。
さて……。