人格の陶冶という言葉がある。
 どんな意味なのだろう?
 ここでいう、人格とは?
 陶冶ってなに?
 ある教員が、こんな風に言った。
 「まず、形から教えなくちゃ」
 私は質問をした。
 「形を教える、私たち自身は、人格の陶冶ができているのだろうか?」
 「……」
 人格の陶冶のできていない人に限って、形式を口にする。
 確かに、心は見えない。
 採点しようもない。
 様々な感情が渦巻き、それを、どう陶冶するのだろう?
 まだまだ、感情のマッピングは終わらない。
 私だって、ブログを書きながら自分の心を整理している。

 さて、お盆休みに入るので、こんなお話しを。
山田隆文の歯医者さん日記

 お茶である。
 ヒカリゴケや早太郎で有名な、信州駒ヶ根の光善寺でいただいた。

 茶の湯で有名なのは、千利休。
 彼は、もてなす心を形にした。
 こんな逸話がある。
 ある日、お客さんの来る準備をしている。
 一輪挿しに花を生けた。
 と、花がぽとりと落ちる。
 利休は、そのままお客さんをもてなした。
 花は、蕾が開き、花が咲き、そして枯れていく。
 ありのままの姿だ。
 だから、ありのままに表現をした。
 利休のわびであり、さびである。
 そこには、利休の心がこもっている。
 でも、それを見ていた人が、自分の茶席でそれをまねをした。
 一輪挿しの下に、あえて、花を落とした。
 形は同じである。
 でも、わびやさびの心は入っているのだろうか?
 やがて、千利休の死後、表千家や裏千家ができて……。
 千利休の心は、どこまで伝わるのだろうか……。

 お釈迦様は、仏教の元を作った。
 でも、始めはお経も、お寺もない。
 菩提樹の下で説法する図が有名だ。
 釈迦が涅槃をした後、弟子達が、お釈迦様の言った言葉を思い出し、記録を残した。
 経文ができる。
 それを保管する場所や、弟子達が学ぶ場ができる。
 寺になった。
 戒律が生まれる。
 形式が生まれる。
 でも、ところ変われば、同じ言葉でも、同じ作法でも、とらえ方が変わる。
 サンスクリット語は、中国語へ、韓国語へ、日本語に翻訳される。
 サンスクリット文字は梵字になった。
 当然、微妙なニュアンスは伝えられない。
 今、日本だけでも、たくさんの宗派があり、それぞれの戒律も異なっている。
 面白いことに、お葬式の作法なんて、仏典のどこにもないそうである。
 ある日、お葬式で香典を包んでお坊様に渡したら、その場で開けてみたお坊様が、「足りない!」と言ったと、知り合いに聴かされて絶句した。
 お釈迦様の心はどこへ行ってしまったのだろう……。

 イエス・キリストもしかり。
 始めは、教会なんて無かった。
 新約聖書は、使徒達がそれぞれ書き記した。
 だから、福音書一つをとっても、ニュアンスに微妙な違いがある。
 いつしか教会ができた。
 聖書も、ヘブライ語・アラム語から、やがてギリシャ語訳ができる。
 実際、日本語で読むとちんぷんかんぷんな意味も、英語で読むと、「ああ、なるほど」と納得できたりする。
 キリスト教だって、カトリック・英国国教会・プロテスタント・ギリシャ正教などなど無数にある。
 ニカイア・コンスタンティノポリスの会議では、どれを本当の聖典とするかなんて、会議もあったらしい。
 教会では、厳しい戒律がある。
 でも、本当の意味での、イエス・キリストの心はどこへ行ったのだろう。 

山田隆文の歯医者さん日記

 孔子廟にある孔子の像である。
 孔子や孟子に代表される儒教は、形式を重んじる。
 善とは、仁とは、道とはこういうものであると規範を示す。
 でも、一生懸命勉強をして、40、50になって、漸く、「迷わず」「立つ」である。
 私など、まだまだ、迷いっぱなしである。
$山田隆文の歯医者さん日記

 これは、老子の像である。
 孫悟空の活躍する西遊記や、道教の中では、太上老君である。
 金星にお住まいらしい。
 さて、老子や荘子は心を重んじる。
 人は、ありのままで、すでに道の中にあり、完成されている。

 二人の生き方は面白い。

 孔子は、自分の論を使って貰おうと、魯に仕え、魯が戦乱に巻き込まれると斉に逃げるが、暗殺されそうになり、また逃げ出す。
 衛に逃れ、鄭に行き、陳へ行き、蔡へ行き、諸国を点々とせざるを得なかった。
 やがて、官吏の仕事に飽き飽きした。
 孔子には、多くの取り巻きや弟子が居る。
 どこに、問題があったのだろうか?

 老子は、孔子とは逆にスカウトをされる。
 でも、宮仕えは嫌だと逃げだそうとした。
 その時に、老子は2巻の書を残し、どこへともいずれかに消えたと言われている。
 弟子など居ない。
 天涯孤独の、一人きりを楽しんだ。

 そう、孔子は、形式の中から心が付いてくると考えた。
 もちろん、教える側としては、管理しやすい。
 よく、茶の湯や武道の世界では、守破離という。
 老子は、心があればおのずと形が付いてくると考えた。
 でも、それを伝えることは難しい。

 私はどちらかというと……。