チーズとバターの話のルーツはこれになります。
 
 チーズを求める。
 道を求める。
 儒教の世界。
 孔子です。

 一方、バターはありのまま。
 道の中にすでにいる。
 道教の世界。
 老子や荘子です。

山田隆文の歯医者さん日記

 http://books.rakuten.co.jp/rb/マンガ孔子の思想-蔡志忠-9784062560740/item/699256/

 孔子は、道を探し求めます。
 そのために、いろいろな規律を作ったりします。
 ですから、お隣の大韓民国しかり、日本も江戸時代からつい最近まで、儒教を尊んでいました。
 なぜなら、規律があるから、支配する側にとってはやりやすいんです。
 意味はわかっていなくても、ただ、「こう書いてあるんだから、そのようにしなさい!」と言いやすいんですね。
 でも、本当は、孔子さんは悩んでいたんですよ。
 あちこちの国で仕官をしたくて、何度も何度も働きかけますが、なかなか、良い仕事を貰えません。
 そうやって、放浪をしていました。
 結局、晩年には、「教えいると言うことは、教科書の外にあるね」なんてのたまわっています。

山田隆文の歯医者さん日記

http://books.rakuten.co.jp/rb/マンガ老荘の思想-蔡志忠-9784062560580/item/681090/

 一方の老子は道なんて探しません。
 もう、道の中にいるんだ。
 あるがままが一番と考えています。
 孔子と逆に、あちこちで、この国で教えを説いてくださいと、勧誘を受けます。
 でも、縛られるのは嫌いだからと、逃げ回っています。

 まるで、両極端ですね。
 あれ、どこかで、同じようなことを書いたでしょうか?

 この考え方は、いろいろと形を変えて、色々な所に流れていきます。

 日本にある仏教の中にもありますね。
 形式でがちがちのものもありますし、一休さんに代表される禅宗のように、自由なものもあります。

 これも、選択するのは私たち自身に他なりません。

・何を大切に思い
・何を求めて生きていくのか?

 その人の、行き方そのもの、アイデンティティそのものです。

 私は、どちらかというと、がちがちの形式よりも、老子や荘子のように、自由に生きていく方が好きです。