師は老いる。
師を越えた弟子も、いつしか自らの弟子に追い抜かれる存在。
この本を読んで、そんなことを思いました。
読書の秋、第4弾。
もう秋じゃなくなっちゃうよ~という時期になってしまいましたが、飽きずに読みます。
(ダシャレ?笑)
今回は、四方田犬彦著『先生とわたし』です。
題名だけ見ると、少女漫画とか、携帯小説の恋愛物とかにありそうですが(ないかな 笑)、これ、結構難解な読み物でした…。。
(もしかすると、夏目漱石の『こころ』から付けられたんでしょうか??)
出版社の一行紹介文。
「伝説の知性・故由良君美との日々を思索する、亡き師へ捧げる長編評論」
これ、ほんとに「評論」文でした…。
最初の数ページだけ読んで、衝動買いした読み物だったので、普通の文庫本を読むつもりで読み出したら、理解が進まない進まない…笑
「由良君美(ゆらきみよし)という助教授が「メルヘンの理論」という全学共通ゼミを開講する噂を聞いたのは、翌1973年4月、2年生に進級したときである。
(中略)
「神話原型論にもとづき、洋の東西・時代の新旧に関係なく、広義のメルヘンを対象として、その作品分析を行い、メルヘンの論理を探求する」と要項には記されてあり、
「オリヴァー・エヴァンズの『短編小説の原型』の抄本をテクストとして実費頒布する」と注記がある。
・・・・・・」
東京大学に入学した著者の四方田さんが、師である由良君美氏のゼミを受講しようと思った場面の一部抜き出しです。
この時点ですでに、この故由良教授の専門分野に???が飛びまくりました。
東大生というのは、こういうのを、「おもしろそうだな~」と思って受講するんだな~、という感心もありました。
更にここから、どういう内容のゼミで、自分がどういうことを勉強して、何に興味を持ったか、由良氏がどのようなことをどんな風に教えていったのか、が色々書かれるのですが、どれもなかなかピンとこない(笑)
例えば、由良氏が講義したことを要約して紹介した部分。
「(前略)
ここで理論的仮説として重要なのは、分析心理学者のユングが説いた、集合的無意識という考えである。
師のフロイトが人間の無意識はどこまでも個人に帰属するものであると説いたのに対して、弟子のユングは師が見捨てて顧なかった「古代残滓」こそが重要であると反論し、個人の枠を超えて人類の無意識に共通に横たわる、非人称的で匿名の要素の意義を主張した。
この集合的無意識は意識の表面に浮上するとき、かならず特定のパターンを媒介として現れる。
・・・・・・」
と、こんな感じで続いていきます。
ソフィー助けて、って思いました。
『ソフィーの世界』という本を高校生の頃に読んで、こういう感じの話には、多少免疫はあるつもりでしたが、いざ難しい言葉で書かれると、???です。
京極夏彦さんの話の中にも、元精神科医が出てきて、こういう精神分析の話をしてたな~と思いつつ、正直、同じフロイトの話でも、同じに思えないのが不思議!!笑
まぁ、この本の本筋はこの講義内容ではなくて、由良氏そのものなので、そっちのエピソードもたくさん書かれてはいるんです。
が、その由良氏を評するのに、彼の考え方、研究者としての変遷、みたいなものは切っても切れない、というか、
むしろそれこそが、研究者由良君美を書く上で重要なキーになってくるため、常にその研究内容に触れつつ話を進めないといけない。
したがって、読むのがしんどい。笑
この作者である明治学院教授の四方田さんがすごいなぁと思うのは、この由良教授の研究内容やら、その学生に対する指導手法やら、言動やらを、その両親の実家、両親の人物像にまで遡って、色々と検討していることです。
正直読みながら、私だったら、自分の教え子に、こんな風に自分の生まれや育った環境を書かれた挙句、自分のことをあれやこれやと推測されたくないな、と思いました。
いやいや、だって本当のところは分からないよね?とつっこみながら読みもしました。
けれど、読み進めるうちに、由良氏という人物は、これだけのことを書かれるだけのバックグラウンドを持っている、ということでもあるんだな~と。
この本が評論と言えるのは、おそらく、師である由良氏を褒めるだけではないところです。
一つには、自分と晩年の由良氏が、言わば仲たがいのような関係に陥ったことの経緯を詳細に描写して、師がただ尊敬されるだけの対象ではなく、一人の人間だったことを、赤裸々に書いてあります。
大学という環境は、自分の経験から言っても、上の教授のそういうことを書くのは、かなり思い切りが必要なんじゃないかと思います。
どんな社会でもそうかもしれませんが、
かなり上下関係がはっきりしているし、ペコペコしたり、お世辞を言ったりするような気を使う場面も当然あって、逆に反目し合えば、全く口も利かない、目も合わせない、なんてことが普通にある。
頭が賢いからと言って、それで人間関係を上手く処理できるわけではないから、教授同士も、教授と院生も、仲が良好だったものが悪くなることもあるし、それが噂になっていたり、それが原因で将来の就職先が変わることもある。
ただ研究がよくできて良い論文を書いていれば良い、という訳ではなく、それ以外の資質も問われる。
そういう狭い社会が、大学の研究者社会には存在していて、そこにいれば、自分の言動にはそういうことを見越して、それなりに気を使わなければならない。
もちろんそれは研究内容にも影響するだろうと思います。
だから、こうやって、師である教授とのことを、バカ正直に書くのは、ある意味違和感すら感じました。
(余談ですが、この感覚を音楽の大学院にも当てはめると、『のだめカンタービレ』ののだめちゃんは、暴挙も暴挙に出て、ハッピーハッピーなままでいるという、超々ラッキーガールとしか言いようがない…と思います 笑)
読みながら、師って何だろう、先生って何だろう、そう思いました。
上で色々書いているように、東大生の中でも学業に熱心な人は、こんなキャンパスライフを送ってるのね~、と別なことで感心したり、自分の大学時代の暗い思い出(笑)を思い出したり、
様々な思いがよぎりましたが、最終的に、単純にそう思いました。
この本の後半は、まさにその師弟関係について、二人の研究者の読み物を中心として、心理学的な分析がされています。
この部分になると、かなり作者の書きたいことがはっきりしてくるので、読みやすかった気がします。
気になったのは、「エロス」とたくさん書いてあること…←えwww
師弟関係に存在する「エロス」ですよ。
抽象的にというか、比ゆ的にというか、そういう感じで「エロス」と用いてるのかと思いきや。
ほんとに一般的に想像する「エロス」も含んでいるみたいでした…笑
(と、少しフロイトのことを調べたら、「エロス」っていうの「生の本能」みたいな意味で使ってますね。当然こういうのを念頭に書かれているんだろうなと思います。)
(読むための教養がないので、色々勘違いしていそうです…汗)
先生とわたし、っていう題なんで、ちょっとドキドキしちゃうな~、と少女マンガ的な気分でそもそも思っていたんですが。←こらこら
ある意味究極の師弟関係。
なのか…!?
(ちゃかすつもりはないです…)
知りたくなかったのは、ハイデッガーとハンナ・アーレントとの関係ですね。。
私、自ら進んで買った唯一の哲学の本が、ハンナ・アーレントの翻訳書で。
なんで借りるじゃなくて、手にとったまま買ったのか、全く覚えてないんですが、それでも、初めてちゃんと1冊哲学の研究本を読んで、そして感動したのも初めてでした。
当然、内容は理解できていないし、覚えてもいないですが(え)、私にとってハンナさんはちょっと特別な哲学者さんなんです。
それがまさか、そんなハイデッガーと…
と、思わず文章を二度見しました。。←
究極の師弟関係というか、その知の伝授という過程における、特殊な高揚感、そういうものを共用する場面での…
と、色々理解しようと思いましたが、まぁ、人それぞれだから、というところで納得してます。。
(それにたぶん、このことはそんな重要じゃない…)
師ってなんなんだろうな、と本を読み終わった今でも思います。
例えば自分が子供を生んで、教える立場になっても、完璧な一つの答えは出ることはないんじゃないか、とも思います。
一生それを問い続けることで、自分がこれから学んだり、逆に教えたりする立場に立ったときの正しい指標を模索できるんではないかな、と。
なんか偉そうですがww
この本で感動するとは思っていなかったのですが、二章三章、四章と、あれこれ書かれた上での、最終章。
四方田さんの先生を評価する文章を読んだときは、思わずぐっときて、少し泣いてしまいました。
同じ人間として色んな事情が取り巻き、衝突が起こったとしても、由良氏が自分に対してどんな影響を与えたのかということ、周りにどのような影響を与えたのかということ、その事実は変わらずあるんだと、
そう思わされて、胸がつまりました。
私自身の先生も、小さい頃から大学の頃まで、色んな先生方がいて。
その先生方とも重なりました。
師って、偉大なんだな、と思います。
それがどんな人柄の先生であったにせよ。
どんな欠点を持つ先生であったにせよ。
小学生の頃の先生に、今でも年賀状を出しています。
今年もちゃんと来年の分を書こう、と思いました。
感想は以上です。
なんだか長々書いたわりに、中途半端な感じで終わりますww
次はもう読み始めてます。
早くしないと冬がくる…。