自分をさらけだすこと | 徒然なるままに。

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「赤心を推して人の腹中に置く」

推赤心置人腹中。(後漢書 光武紀上)



赤心(せきしん)とは、まごころ、を意味するらしいですが。


意味としては、誠心誠意をもって、人に接する、ということでしょうか。


もっと正確には、自分に誠意があることから、人にも誠意があると思うこと。

(誠意とは、うそいつわりのない心、私利・私欲のない心、つまり、まごころ。)



人(の誠意)を信じて疑わない、と言うと、なんだか偽善者っぽくも思えます。


でも、そう思うのは、自分に人を疑う気持ちがあるから、とも言えます。



自分が人を疑うから、人も自分を信じている訳がない、と思ってしまう。


同時に、人を信じて裏切られたら?と心のどこかで考える。



そんな大した話ではなくて、日常の話。

その人の全てを疑うとか、全てを誠意じゃないと疑う訳ではなくて、どこまで信頼するかの線引きをしてしまう話。


たとえば、自分があまり人に話したくないこと、恥ずかしいなと思っていることを、最近親しくなったと感じる相手にしゃべる。

それを、後日、「○○さんって、△△なんだねー。」と他の人から聞かされる。


その人だからと信頼して話したのに、知らないとこで他人にそれを話したんだ、となんだか釈然としない。

このショックも、信頼を裏切られた一例にはなります。

小さいことですが。



たとえば、一緒に協力して事を成すとき、自分のミスをフォローしてくれた人がいる。

その時は感謝して、お返しに自分も相手のフォローをする。


ところが、いつの間にか、自分のミスと相手の功績が目立って残る。


あー、立ち回りを失敗したんだな、と。相手は上手いこと立ち回ったんだな、と。

誠意だと思ったあのフォローは、私のためじゃなかったんだ、と。


これも後で考えると、小さなことです。



でも、そういう小さいことの積み重ねというか、そういう経験の積み重ねが、自分をさらけ出す相手・自分の誠意を見せる相手を、慎重に選ばせるようになっている気はします。


「スマートな大人」として振る舞って、上手いこと世の中を渡ってる様で、その実、人を信頼することを避けている、心のどこかで人を疑ってかかっている様に思います。


要は、こわがり、なんでしょうね。


信じて、裏切られて、傷つくことを恐れる。

傷つくまではいかなくても、損をした、と思いたくない。


だから、他人の誠意を、誠意と思うことを恐れ、

真の意味での自らの誠意は、相手に見せたくない。




「赤心を推して人の腹中に置く」


この句には、ただ自分の誠意を示せ、ということ以上に、相手の誠意を信じる、という意味が重要なんだろうと思います。


もっと強調して言うなら、誠意を示すだけでなく、自分をさらけだして相手の腹の中にとびこむこと、相手を信頼すること。



この句の元の話は、後漢王朝を開いた光武帝の話です。


劉秀(のちの光武帝)が、地方を平定する中で、投降してくる者たち(元敵対していた兵)を、味方に受け入れる際の話。


味方の諸将には、当然、投降者を疑う者もいる。


しかし、劉秀は、投降者の中に、かつて敵の首領と通じていた者がいれば、証拠の書類を焼き安心させ、ある時は、投降者の部隊の中を、軽装のまま自ら閲兵した。


その姿を見て、投降者らは、

「赤心を推して人の腹中に置く。いづくんぞ、死に投せざるを得んや。」

と感激した。


つまり、劉秀の行動は、この人のためなら、命を投げ出してもいい、と元敵兵に思わせる行動だった、という感じの話。




実際、私も、上司やその下につく相手としては、こういう劉秀みたいな人がいいです。


最後まで、自分を信頼してくれるだろう、という確信のもてる相手。

そういう相手こそ、自分も心から信頼できると思います。



銀魂でいうなら、近藤勲局長ですね。

どこまでも、懐深く相手を受け入れる姿勢。

それこそが、相手からの信頼を得る。


一方的に、これは誠意だ、と見せ付けるのではなくて、まず自分をさらけ出すこと。

自分をさらけ出すということは、その相手を自分が信頼している、という何よりの証。

そうやって相手を信頼して初めて、相手の信頼も得ることができる。



まぁ、言うは易し。

なかなか難しいです…。


人生の中の大事はもちろん、小事であっても、「まずは人を疑え」とまでは言いませんが、やはり「まずは自分の保身から」という姿勢になってしまいそうです。




でも、

自分ではなくて、相手を。

そういう懐深く受け入れてくれる相手を。

つまり、私が自分をさらけ出せる相手を。


もしかしたら見つけられるかもしれない。

という希望は持ってます。


自分ができないのに!っていう話ですが。



でも、もしそういう相手を見つけられたら、一生ついて行きたい!

上司としてか、師匠として仰ぐか、自分の進路を変更してでも付いて行くか、は分かりませんが。

そういう人にめぐり合えたことは、一生の宝になるんじゃないかなぁと。



まー、どちらかというとお仕事上の話です。

プライベートでは、(もちろんお金などが絡まないこと前提で)、信頼できる友はいます。


家族も信頼しているし、恋人なり結婚する相手のことも信頼できると思います。たぶん…。



そういうプライベートな関係よりは、仕事なり、金銭が絡む関係なり、何か社会的な立場で接する相手の話ですね。


そういう損得勘定の働きそうな関係の中で、自分のまごころを常に見せることができる相手は、実はなかなかいない。




ただ、そういう相手を見つけるためにも、自分をさらけ出す練習、というか心構えは、必要になる訳で…。


そうすると、結局それは、日ごろ日常生活の中で接する人に、どれだけ「まごころ」を示せるか、ということになるのかもしれません。


(プライベートな付き合いでも、少しでも仕事が絡む相手の場合は、なかなか完全なプライベート関係と思えないときも増えているので、意外とこれが難しい…。)


(逆に、全く見ず知らずの人の善意を、善意と思うことの方が簡単だと思う時さえあります…。)

←あれ?何だか病んでる感じですか?。。。



もっと、人を信じられるようになりたい!

です。


自分を、人に、さらけ出せるようになりたい。

(この点では、友人や恋人を信頼できるか、ということにも通じるんだろうな。)



カリスマ性のある人っていうのは、このまごころを、分け隔てなく見せることのできる、正に光武帝みたいな人かもしれないです。



だんだん、何が言いたいか分からなくなってきました…


というか、なんで寝ないで、こんな訳分からない記事を書いてるんだろう…。。。