ぎっくり腰です。
正確には違うかもしれんけど、結果は同じ。

ベースを座って練習したのがいかんかった。ネックが長い分、どうしても無理な姿勢になる。

それを長く続けていると、腰の筋肉が引っ張られて(つまり体が硬いのだけど)、そこから痛みが発生してしまう。分かっていても、練習始めるとつい集中してしまい、結果、翌日以降に痛みが出る。

今回はそんな痛みを無理して動いたのがあかんかった。


「あ”ー!!」と痛みの火山が爆発、大炎症に。

それでも数日経ち、余震レベルの痛みになり騙し騙し動いている。

が…

とにかく動きが「ミリ」単位。
何をするにも普段のX倍の時間がかかる。

椅子に座るのも、着替えるのも、駅に向かうのも、何から何まで大変時間がかかる。


こんな事に最初はイラついていたけど、だんだんと気づくことがあった。

ひとつには、「体が動くのは素晴らしいギフトだ」ということ。動くから行きたいところに行けるし、ひとに貢献することもできる。精神の健康も体の健康があってこそ。痛みがあって動けないと考え方も悲観的になる。

そして何よりも「体はいろんな部分のバランスで成り立ってる」のだという体感を得られる。

痛いところが問題というより、他のバランスが悪いからここに痛みが走るのだとわかる。歩いていると腰を庇うから他の部位の筋肉が疲れる。

そして更なる気づきがあった。

それは何かを体感する時、些細なことをとてもしっかり意識できること。


普段の動きなら間違いなく感じないし、見過ごしてる。


それは言い換えると動くことができるからそのスピードから見える景色で自分の思考が成り立っているとも言えるのではないか?と思った。


大袈裟かもしれんけど人はその人の「動くスピード」が思考のベースになってるのかもしれん。


動けなくなって、普段の思考では見過ごしていた様々な価値に気づいていくと、「ああ、おれは傲慢だったんだ」と気づく。つまり動けることにかまけて、生きるプロセスの中で「何かと俺」の間に生まれる「あいだがら」を感じることなく、ただ漏れの水道水のように、やり過ごしてたんだという意味。


そして豊かな感性はスローな動きに宿るんじゃないか?と気づいた。


こんな風に、たまには「スローな動き」の中で生きるのもいいかもと思える。痛みが治っても、意識的に「スローに生きる」時間をもっと持つことで思考の幅を広げようと思った。

そういう意味でぎっくり腰は素晴らしい経験に変わってきてます。痛いけど。