支配者は支配対象が自分の支配力の及ばない社会集団に所属することを嫌い、支配対象がその集団に入ることを拒否する。

 

 人は複数の社会集団に属すが、子どもも成長するに従ってその所属する集団の数は増えていくのが通例であり、初めは地域の子ども会など完全に親の支配下にある集団にだけ属しているものが、徐々に親の管理の届かない子ども同士のグループを形成して所属するようになる。支配的な親はこれを非常に嫌う。

 

 社会集団には社会集団ごとの「取り決め」や「約束」がある。集団の公私の別、大きさの違いなどによって差はあっても、それぞれの暗黙の決まり、明文化された決まり、習慣化された決まりなどがあって、その集団に所属しようと思えばそれに従うことになる。支配対象がこれらの集団に入った場合、支配者の管理下にある集団ならよいが、支配者の管理下にない集団の場合、支配対象が支配者の手の中を離れ、別の規則のもとに動き出すことが支配者には許容できないのだ。

 

 K君の小学校の子供会では夏になると地区対抗子ども野球が開催され、小学生が春から週末等に練習してきた成果を競った。参加するのは男の子だけで参加するしないは自由だった。K君は運動は苦手だったものの嫌いではなかったし、地区のみんなと一緒に目標に取り組むことが楽しかったので、地区の野球チームに参加していた。

 ところがK君の母親は練習に行ってもいいかと許可を求めても、「何しにそんなことやるんだ!」と一喝して行かせなかったり、不機嫌に沈黙して無視したりで、K君は「また練習に行けないのか」と胸がつぶれる思いで家にいるしかなかった。

 もともとあまり上手でない上、時々しか練習に行けないのでなかなかうまくならなかったし、行かせてもらえても、練習時間の後半になってからやっと許可されて練習に加わるという具合で、チームの仲間からは「今ごろに来たってだめだろう」などと言われて肩身が狭かったりした。

 

 野球チームは子供会の活動ではあるものの、コーチは地域の野球好きの大人に子どもたち自身が指導を頼んでいたのであり、練習日や時間を決めることにしても、子どもたちの自主的な活動という形で行われていた。母親たちは大会当日に数人が応援に来るほかのかかわりはなく、K君の母親にとっては全く自分の管轄外のことでしかなかった。

 

 子ども野球に熱心な地区もあり、子供会費用でユニホームを買いそろえてくれるところもあったが、多くのチームでは予算もなく、帽子をそろえるくらいが精一杯だった。K君たちのチームでも子ども同士で相談し帽子を買おうということになったが、子供会に頼んでもお金がないからだめだと言われたため、その費用を廃品回収をして工面することになった。空き瓶が効率がいいだろうということで、リヤカーを引いて地区を回って空き瓶回収をすることになり、その日程も決めた。

 

 ところが前日になって突然、K君は母親から廃品回収に行ってはいけないと言い渡されたのである。「なんで!?」と訊くと母親は明日は自分はJ子(K君の妹)と買い物に出かけるからお前は留守番をしていろと言うのだ。別に留守番をしていてやらなければならない用事が特別にあるわけでもなく、みんなが出かけるならいつものように鍵をかけて行けばいいだけの話だ。

 「鍵をかければいいでしょう?」

 「おめえは留守番もできねえんか!」

 「明日は廃品回収に行くんだよ」

 「留守番もできねえ奴はもうこの家にいなくていいから出ていけ!」

 口汚い罵りは際限なく続き、「野球なんかやってて食えると思っているんか!」「お前の場合は何でもエスカレートするからだめだ」「何々君なんか野球なんかやんねえでちゃんと家にいるってや」「利口な子は野球なんかやんねえ」「そんなことやるんなら漢字のひとつでも覚えろ馬鹿!」「お前みてえなグズなんかいてもつまらねえ」「お前は親の言うこと聞いたことがただの一度でもあるんか」「お前なんか産むんじゃなかった」「ほれほれ、とっととどっか行っちめえ、ほれ!」「おめえなんかいねえ方がせいせいすらあ!」と来る。

 

 どうしても廃品回収には行かせてもらえそうにないと悟ったK君は困り果て、泣きたい思いでチームの友だちに電話を掛けた。

 「明日は家の用事で行けなくなっちゃったんだよ。代わりにうちのリアカーも使っていいからさ。2つあったほうが手分けしてたくさん集められるだろ?」

 それは自分が行けないのに、他の子たちでリアカーを2台使い空き瓶をたくさん集めろということにもなり、却って失礼だなどという考えは5年生には浮かばず、とにかく自分が行けなくなったことの償いを少しでもしたいという気持ちで自家のリアカーを貸すからと言ったのだ。

 

 次の日(廃品回収当日)チームの仲間たちがK君の家のリアカーを借りに来たが、K君の家のリアカーを見るとタイヤがぺちゃんこだった。パンクしているようであり、修理などしていてはその代金や時間がかかることになるから結局借りないということになった。

 K君は家にいて用事などなさそうなのに廃品回収に参加しないのだということもわかってしまい、心無い下級生に「K君は帽子なしだからね」とまで言われてしまった。親とのやり取りを伝えようとしてもうまく説明できず、みんなにはわかってもらえそうになかった。のびのび活動してるチームの仲間のことがほんとうに羨ましかった。 子どもには子どもの立場があり、それを失えば集団にいることはできない。

 

 この廃品回収では帽子の購入資金を集めるという目的以上に、子ども同士で相談し、協力して問題を解決していくというところに大きな意味がある。リヤカーを引きながら地区の家々をまわり、大人たちに説明して協力を求め、「あそこの家はたくさんくれたよな」「あの家は瓶は少ないけどおばさんが優しくておやつくれたな」「あそこのおじやんはなんだか話が通じなかったぞ」などと体験を共有しながら仲間の結束を強めるということの意義が大きい。

 ところがK君の母親にとってはまさにこれこそが許せないことなのだ。すべて自分の支配下にいなければならないK君が、自分の支配の及ばない子ども同士のグループで結束されたら困るのである。彼女にとっては息子が野球チームで立場を失ってくれたほうがむしろ望ましいのだ。

 

 それは子どもの成長からしたら、様々な集団に属しながら社会性を獲得していく時期にその機会を失うこととなるし、またそれ以上に子どもの心に刻まれる傷(トラウマ)が将来的な禍根となる。

 廃品回収に参加しなかったことがみずからの主体的な判断ミスであったのなら、後悔はするもののまだ小さな痛手で済んだかもしれない。しかし母親という他者の手によって、家という共同体と、野球チームという社会集団との間で激しく、そして深く引き裂かれたからこそその傷は痛々しく残るのである。育ちつつあった主体性がその力を発揮する場を奪われ、K君は他者によってなされるがままに引き裂かれたのである。

 相容れない決まりごとに則って対立する二つの集団の間で行き場を失えば、待っているのは死しかない。その死を避けようとするのならば一方の集団を離れて意識からも抑圧し去り、もう一方を選択せざるをえないことになる。伸長しようとする自我がその場を提供する社会集団を選ぶのではなく、自我を抑圧する家にとどまる選択をせざるを得ないことは耐えがたい苦痛でしかない。

 

 K君を自分の支配(理解)できる範囲内だけに押しとどめようとする母親の過剰な管理は、その後K君が中学から高校、大学に入っても続き、K君の引き裂かれ体験も反復した。経済的に親に依存していたためにそれまで「家」を選ぶほかなかったK君が、ついに重大な判断を下すのは大学生になってからのことである。