K君が小学校3年生の時、車で一時間ほどかかる母親の実家に父親と二人で中元の届け物に行ったことがある。もともと家族四人で行くことになっていたが、妹が熱を出して母親とは家に残ったのだ。
帰り道、父親の運転する車の助手席で何もすることもなく、父親も何も話しかけてこなかったが、そんな時外を見たりスピードメーターの動きを見たりして、退屈せずにおとなしく過ごせるのがK君であった。K君の家庭ではいつも母親ばかりが一方的に話をし、ほかの家族成員はお互いに話をほとんどしないので、母親のいない時にはしんとする。
助手席に座って父親のペダル操作と計器類の動きとの関連をじっと観察していたK君だったが、こんどは何度か押したり引いたりしていじっていたシガーライターを赤信号で車が止まった時に引っこ抜いてみた。
「これ熱いのかな」
先にあるコイル状の針金は特に赤くもなっていないので、確かめるために右手中指の腹で触ってみたが、はたしてそれはとんでもなく熱かった。ただ熱いだけでなく、油断してしっかり押し付けるように触ってしまったK君の指からは白い煙まで出た上、焦げる臭いさえもした。
声も上げずに手をひっこめてみるとその指腹は人の皮膚ではないように蝋のように白く変色し、続いて強烈な痛みが襲ってきた。家族どうしで何も情緒的な会話をかわすことがないのがK君の家であったから、K君はいつものとおり黙って、自分の尻と座席の間に右手を突っ込んで我慢していた。
「触ったんだんべ。馬っ鹿が。」
父親は何も言ってこなかったので、気づかないのかと思っていたが、指先の変化を気にしているK君を実は横で見ていた父親はしばらくしてから驚くでもなく、また心配するようでもなく、いつものように息子の愚かさをそう一言断じただけで、熱かったかとか大丈夫かなどと訊いてはこない。
K君としても熱いとも痛いとも言わず、ただ「赤くないから」とだけ言いわけをした。
「赤くなくたって熱いに決まってらあ。」
どうしてそれは「決まっている」のかK君にはわからなかったが、とにかくそれは「決まっている」のだから事前にあたりまえに知っていなければならないのであり、知らずに触った自分に責任があるのだ。世の中にはあらかじめ承知せねばならない物事がたくさんあるのであり、自分の無知は恥ずべきことなのだ―たとえ今までそれを知る機会が全くなかったとしても・・・。
父親との会話はこれだけで終わってしまい、家に帰ってもこのことが家族の話題になることもなかった。
その日は火傷の痛みに耐えていたが、次の日にはK君の右手中指の先は水ぶくれとなった。自分で針を刺して何回か水を抜いているうち水泡は破れてしまい、浮いた皮膚を取り除いて2日もすると化膿してきた。
それから毎日家の薬箱を開け、中にあった黄色い粉の傷薬や脱脂綿やらを自分で工夫して治療したが、治るのには何週間もかかった。
何か問題を起こしたらとにかく自分が悪いのだ、何も誰にも相談しないで自分で処理するのだ。
K君の思考傾向、行動傾向は子どものころに深く形づくられ、大人になって自分でその傾向や原因を認識したあとでも、その影響から逃れることはできなかった。