戦時中は川崎にいたから空襲にあって大変だった。多摩川を渡る時、レールが焼夷弾で熱くなっていたのを覚えているよ。橋から下を見ると、人がたくさん折り重なっていたね。私はよく生きていたもんだよ。
 
戦後は高崎の製糸工場に行ったよ。住みこみといったって、ろくに食べるものなんかなくて大変だった。麺類やすいとんのようなものを草と煮たようなものきり出たよ。だから今でも麺類は食べたくないね。糸を卸す先にお使いに行くと、いい糸を回しておくれというわけでおこわとかお土産に持たしてくれるのが楽しみだった。寮に持って帰ってみんなで食べたよ。
 
イメージ 1
 
 
私は17歳の時、岡谷の製糸工場に行ったよ。はじめて行く時には切符を買うお金が1円か2円足りなくて、小海の親戚のおばさんが駅員さんにかけあってくれたよ。「切符を負けてくれという人は初めてだ」と駅員さんに言われたけど、後でもってくるからといって汽車に乗せてもらった。韮崎についたときには岡谷への汽車がもうなくて、牛の載っている貨物車しかなかったけど、行かないわけにはいかないから、貨車でいいからどうかお願いしますって頼みこんで、牛と一緒にそれに乗って行ったよ。
 
工場ではお腹すいて仕方ないから繭を煮たあとのさなぎをこっそり食べたよ。会社の人にはさなぎも売るのだから食べてはいけないと言われたけど、どうしても食べずにはいられなかった。ほんとは空炒りするといいのだけど、そんなことできないからゆだっているのをそのまま食べたよ。そのさなぎで体がもったようなものだね。
 
イメージ 2
 
小学校の時は2里もある山道を歩いて通ったね。子どもどうしで、一人にならないように通学した。今の時分になればもう家に帰る頃はすっかり暗かったよ。街灯なんかないから月がなければ本当に真っ暗だった。ときどき山のほうに狐火が見えたこともあったよ。普段は草履だけど、1日ともたないから行きは穿かないで裸足で行った。冬だけ短靴があったけど、雪でも降れば腰までびっしょりだったよ。
 
イメージ 3
 
山なんて怖いところだと思っていたけど、来てみると結構おもしろいね。今日は遊山だった。また来たいよ。