
その男の人は、クマみたいな雰囲気だった。
もしかしたら、クマの化身かもしれない。
それで、ある春の日に、桜を見に行こうと
誘ってきた。
桜か、と思った。ありきたりの桜は見飽きていた。すこし変わった桜でも、人に見られるうちに
ありきたりに陥ってしまうのだった。
でも、そのクマの誘い方が微妙で、私を頷かせたのだ。
君みたいな場所なんだよ、だから誘ったんだよ、と。
もしかしたら、その場所に行ったら、クマの正体が明かされるかもしれないという期待もあった。
その日、5時に待ち合わせた。夜桜か、とひとりごちた。お酒でも飲みたくなるかもな、と思って、少し温めた地酒をリュックにしのばせた。クマは時間に正確だったので、すでにそこにいた。クマの風貌は、ますます人間からかけ離れているように思えた。そのせいか、私の彼に対する興味はメモリ3つばかり増し
た。クマの目は私を捉えて、ついてくるように促す。クマはのっそりゆっくりと歩いた。私に歩調を合わせているようにも思えた。
暗くなっていく山道を歩いた。明かりもないのに不思議なほどするすると前に進む。山道で目印のようにしていると、クマの背中はかなり魅力的だった。後ろから抱きつきたくなる衝動を抑えるのに難儀するほどであった。
さあ、ここです。とクマが立ち止まると、桜の小さな木の前にベンチが1つある場所についた。暗闇の中でぼうっと明るみがさしたような、その桜の木は、私の脳の中で、なかなか像を結ばなかった。脳は記憶を探そうとして躍起になっていた。私は心もとなく、放心して無言のまま桜を見ていた。クマは私の手を取りベンチに座った。
小さい頃に住んでいた家の近くに、よく遊びに行く森があった。私は人見知りが激しく、友達がなかなか出来ず、いつもひとりで森に遊びに行った。木に話しかけていた。そうして、一番のお気に入りの木にたどり着くと、木の周りをぐるぐるとまわり、木を抱きしめた。抱きしめると、いつも涙が出てきた。それは自動装置のように私を促し、私の体から熱いものが込み上げて瞳から溢れてくるのだった。私はその木がとても好きだった。
クマは私にキスをしていた。だから、私の記憶がよみがえったのだ。ありがとう。と言って、私はクマの肩にもたれた。