法隆寺(607年)は聖徳太子(574-622)の鎮魂の寺である。奈良時代(710-794)の政権者は、度重なる火災疫病は太子の怒りであると考えていた。何故そう考えたのだろうかというと、蘇我氏によって、太子の血縁者がことごとく死んだだ。
太子の他界から21年後の643年、太子と一緒に政治を行っていた蘇我蝦夷の子、入鹿は太子の子供、山背大兄王、が天皇になることをおそれ、襲撃した。逃れた山背大兄王は、家臣から「東国へ逃げて再起を期し、入鹿を討ちましょう」と意見されるが「入鹿と戦えば勝てるだろう。しかし私のことで戦乱になって苦しみ傷つくのは百姓たちだ。そんな事態を引き起こすくらいなら、私の命を入鹿にくれてやろう」と、山背大兄王は一族22人と首をくくって自害した。ここに太子の血は絶えた。そのために後の政権者は亡くなった聖徳太子の怒りがさまざまな災いを起こしていると考え、それ以上太子の怒りを招かないよう、この寺であらゆる手をつくして、彼の鎮魂に努めたのである。
救世観音像は法隆寺が再建されたその100年後(739年)に藤原氏によって建てられた。通称「夢殿」と呼ばれる東院に安置されている。以後1000年白い布にかぶされたこの像は秘仏として人の目に触れることはなかった。1884年、岡倉天心とフェノロサ(Ernest Fenllosa)は法隆寺夢殿を調査した。彼らは、古都の文化財を調査、保護するための政府のエージェントだったらしい。夢殿の救世観音像は数世紀もの間秘められており、だれもみたことがなかった。鎌倉初期の法隆寺の学僧でさえ、「だれもみたことがない。仏像のかたちはわからない。」と記録している。実際、天心とフェノロサは500mもの白い布をほどいてようやく8世紀以前では最良のコンデションにある木彫仏をみいだしhた。そのとき、法隆寺の僧侶たちが逃げたとしたという。
(現在、4月末-5月と11月に各2週間ぐらい公開される。)
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