2/20 ICU Worship Nightメッセージ;
「わたしがあなたがたを愛したように」
塚本 良樹
1. 自己紹介
09の塚本良樹と言います。今回、こうやって、メッセージをする機会が与えられたことを、神様に感謝します。
最初に聖書を読みますので、聞いてください。ヨハネによる福音書13章34節。「わたしはあなたがたに、新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
今回、メッセージをしないかということを、ここにいる優介に依頼されて、ずっと何を話そうかな~って考えてたんです。他にもいろいろアイデアはあったんですけど、やっぱり、僕が四年間学んだことは何だろうと考えてみると、やっぱり神さまがいかに僕を愛してるかということだったと思うんです。しかも今学期のWorship Nightのテーマが「神様の無償の愛~新約聖書ヨハネによる福音書より~」。なので、今夜も、この「神様の無償の愛」とは何なのかということ、いっしょに考えていきたいと思います。一言、お祈りします。
「愛する神様、今日こうしてわたしたちが生きていることを感謝します。そして、あなたが、ここにいる一人一人の名前を呼んで、この場所に招いてくださったことを感謝します。この大学のなかに、このようにあなたを賛美し、あなたのみことばを開く群れを、あなたが立ててくださったことを感謝します。今日は、このわたしが、あなたに教えられたことを話します。どうか、あなたが、わたしに言葉をあたえてください。不必要なことを語ることがないように、守ってください。お願いを致します。このときをあなたに期待して、イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。」
2. 「愛」とは何か
わたしたちが、この現代の世界で生きていると、この「愛」という言葉は、よく耳にする言葉なんじゃないかなと思います。CMとか、テレビとか、日常会話とかで。そして、僕のようなクリスチャンは、この言葉を非常によく使うし、当たり前のように言います。さっきも祈りのときに「愛する神様」って言ったように、本当に良く使うんですね。
しかしですね、実は明治時代、キリスト教会が日本で伝道を始めたころ、この言葉は、すごく誤解を生んだそうなんです。なぜでしょうか?(はい、ゆうじろうくん)
当時言われたのは、「どうもキリスト教会っていうのは、男女が愛し合っている場所らしい」とか「キリスト教徒っていうのは、どうやら公然と、愛し合おうと言っている、何かいかがわしい集団らしい」とか言われたらしいんですね。これは、この当時、日本語の「愛」っていうは「男女の愛」という意味しか考えることができなかったかららしいんです。(へえー)
ですが、今日辞書を開くと、そのような「男女の愛」っていう意味だけではない「愛」という言葉に出会えますよね。これは、キリスト教が、この「愛」という言葉に新しい意味を加えたからなんです。二葉亭四迷という明治時代の小説家を知っているのでしょうか。(はい、ゆうじろうくん)彼は、Loveという言葉をこう訳したんです。Love、それは「その人のために死ねること」なんだと。キリスト教は、こういう「愛」があるのだということを日本人に教えたんです。(へえー)
3. キリスト教は「愛の宗教」か
現代でも、キリスト教は「愛の宗教」だとよく言われます。でも、同時によく言われるのが、「クリスチャンっていうのは偽善者だ」っていうことだと思うんです。
これも言われたことがあるんですけど、「クリスチャンっていうのは、よくきれいごとを言う。『人を愛する』とか『よい行いをする』とか。もちろん、マザー・テレサとか、キング牧師、田中正造とかすごい人は確かにいる。でも、行動が伴っていない人がほとんどなのではないか。むしろ人を傷つけ、苦しめているクリスチャンの姿があるのではないか。」これは僕を含めて非常に当てはまると思います。
僕自身はクリスチャンの家庭に生まれました。幼いころから、神の存在を教えられ、イエス・キリストの十字架を信じてきました。もちろん、教会に行かなくなったり、疑いをもったりしたことはありました。しかし、神様の「愛」は信じ続けてきました。
そして、クリスチャンだから、人を愛そう、神さまを愛そうといって努力も続けてきました。おそらく、多くのクリスチャンはそうしていると思います。しかし、長いキリスト教の歴史を見るとどうでしょうか。とても暗いですよね。また今の自分を見るとどうでしょうか。暗いことを言って申し訳ないんですけど、四年間をふりかえってみて、自分には、良いクリスチャンって自分で思える潜在的な力は一つもないと思います。
もし、「おれいけてんじゃん」って思った瞬間、「あいつよりマシ」ってモードに入って、人を見下すようになって、たとえ良い行いに見えることをしても、それは見栄のためでしかなくなってしまうからです。
「本当に自分には愛がないなあ」と思うときがあります。神さまも、友だちも、本当の意味で愛することのできていない自分を見ると、「キリスト教は愛の宗教なのか?」という問いが生まれる理由もよく分かります。所詮きれいごとなのかと思うのにも納得がいきます。
4. なぜ愛せないのか
人は、誰かから愛されてないと、愛することができないと言われます。愛された経験がない人はどう愛せばいいか分からないからだと言われるんですね。
しかし、僕は神様に愛されているってことを知っています。ありえないくらいの愛され方をしてくれているってことも知っています。それなのになぜ人を、イエスがされたように愛せないのでしょうか。
僕は、思うんです。もし、愛せないとしたら、逆に考えれば、自分が、もったいないほどの愛で、愛されていることが分かっていないからじゃないかと思うんですね。愛を実感していない。自覚していないからなのではないかと思うんです。
だから今日、自分自身に、問いたいと思うんです。イエス・キリストは、どうやって私たちを愛されたのかということを問いたいと思うんです。
5. 十字架とはなんだったのか
みなさん、十字架を知っていますか。本当に知っていますか。おそらく、なんとなくはわかるんじゃないかと思います。でも十字架の苦しさってあんまりピンとこないですよね。
実は、ある本の中の中で、メテレルっていう医者がこの「十字架の苦しさ」について医学的に研究しています。かなり残酷な話なのですが、僕も衝撃を受けたので、ぜひみなさんにも聞いて欲しいと思います。
聖書によると、イエスはまず、ムチ打ちをされました。当時のローマ帝国のムチ打ちは特にその残酷さで有名で、打つ回数は、普通は39回って決められているんですけど、担当の兵士の気分によってはそれ以上になることも日常茶飯事だったそうです。
しかもそのムチというのが、鉄の玉と尖った骨の入った革のひもで、この鞭を身体に打つと、中に入った鉄の玉が身体にめり込みます。そして、尖った骨が身体を裂きます。この鞭は、肩から背中、腰、そして足と体全体に打たれるそうです。その結果として、骨がむきだしになることもあったそうです。
一度に大量の血液が、急激に失われることで、心臓に血液があるわけではないのに、それでも血液を身体に送ろうと、心臓の鼓動がどんどん早まります。そして、血圧が下がり、気を失います。最後に、大量に失われた血液のせいで、のどが異常に渇くそうです。
しかし、これはあくまでも十字架の前段階です。このような状態の中で、イエスは十字架に架かります。まず、横に寝かされ、およそ13センチから18センチの長さの釘を手首に打ち込まれます。よく誤解されるんですけど、手のひらではないですよ。手のひらだと皮膚がやぶれてしまいますし、当時のことばでは手首の上の方は手のひらと言っていたそうです。そして、ここは、最も太い神経が通っている場所なんですね。さらに、釘によって十字架に固定されると、腕が横に15センチほど伸び、そこから腕が脱臼します。
そして十字架が立てられます。メテレルによると、十字架刑の死因は、窒息死だそうです。十字架上で、イエスは身体を上下に動かして息をします。背中はキズだらけ。木の十字架がその傷に触ります。そして、だんだんと体力がなくなり、身体を上下に動かせなくなると、息が出来なくなり、そして死ぬというのです。窒息死って、一番いやな死に方ですよ。じわじわと、苦しんで、死んでいくんですから。
イエスが苦しんだのは、肉体的な苦しみだけではないです。イエスは、自分が愛して、いつも行動を共にしていた弟子たちに裏切られました。「あんなやつ知らない」とまで言われました。そして、聖書は、三位一体、三つにして一つであり、完全な愛の関係にあったはずの父なる神と、断絶されたと言います。だからこそ「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と断末魔の叫びをした、と言います。
イエスは、自分に起こることを知っていたと聖書は語ります。それなのに、逃げずに、なされるがままになったというんです。これは普通の人間にできることじゃないです。
イエスは、わたしたち人間を救う方法は十字架しかないことを理解していたからこそ、「罪」の結果である死を、わたしたち人間の身代わりとなって引き受けてくれたのです。ここに愛があります。そして言うんです。「わたしはあなたがたに、新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
6. 無条件の無償の愛
イエスは十字架で死にました。ムチ打ちでボロボロになって、人々に侮られ、孤独の中で苦しみながら死んでいきました。そして、それは、わたしたちを愛しているからだと聖書は言います。
わたしたちの傷をいやすため、わたしたちの苦しみを担うため、そしてわたしたちを滅びから救い出すためにイエスはわたしたちすべての傷を、苦しみを、「罪」を負って死んだのだと聖書は語ります。イエス・キリストという神は、それくらいわたしたちのことを愛しているのだと語るんです。
そして、それは、わたしたち人間の愛みたいに、何かできるからとか、かっこいいからとか、何とかだから愛するなんていう条件付きの愛ではありませんよ。聖書の言う神は、わたしたちがどんな人間であれ、無条件で愛してくれているんです。
そして、それは無償です。例えばね、ある人が恋人に指輪をあげるとします。そしたらその恋人が、財布から一万円を出して、「これをたしにしてよ」って言ったらどうですか。(はい、テラくん)いやですよね。神さまもそうです。ただ、受けとってほしいんです。
このような愛を土台としているのがキリスト教なのです。それほどまでに愛されているのだから、「あなたがたも愛し会いなさい」と聖書は語ります。ここで、おもしろいのは「あなた」じゃなくて、「あなたがた」と言っていることだと思うんです。僕の尊敬している先生はいつもこう言います「信仰はチームプレーだ」。
一人でいると、わたしたちは忘れるんです。自分が愛されているということが分からず、愛せなくなくなるんです。でも、だからこそ、集まるんです。そして聖書を開き、神さまの愛を確認するんです。
だから、教会があって、大学の中にはKGKがあって、そしてこのWorship Nightがあるんじゃないでしょうか。今日も賛美をしました。この場所には、神様の愛が確かに、満ちています。
もちろん、僕も、まだ途中です。神様の愛が分かったなんて、とてもいえません。でも、この大学の四年間、KGKの友人達と、また教会や寮などの、「交わり」つまり、「あなたがた」の中で、神さまの愛がもっともっと分かるようになりました。
集まることで、思い出せるんです。イエス・キリストが語った、「わたしが、あなたがたを愛した」という言葉を、この愛を、理解していくことができるんです。そして、真実に愛し合うことができるのではないでしょうか。
お祈りしましょう。
「愛する、神さま。大学四年間、あなたはたくさんのことを僕に教えてくだりました。特に、あなたの、永遠で、無償で、無条件の愛を教えてくださったことを心から感謝します。ただ、ありがとうございます。この、あなたの愛が、この交わりでも表され、このICUにあふれていきますように。わたしたち09は卒業します。残る者たちに、その使命を委ねます。しかし、わたしたちは祈り続けます。この、賛美する群れが、あなたのみことばを開く群れが、この世界が終わる日まで、この地に存在し続けることができるように。この祈りをイエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。」