本日2016年2月11日
11年間一緒に笑ったり泣いたり怒ったりを共にした友人志穂を見送りました
突然の知らせ
殆どの方にとっては寝耳に水だったと思います。
志穂の事をご存知ない方へ
彼女は私の長年の友人でモデル
究極の砂時計BODYプロジェクトも昨年二期生として参加していました
記憶にも新しい昨年12月に開催された
Bride of the world JAPAN
のファイナリストでもあります。
そして年明けから
あっという間に癌は進行し
2016年2月7日16時15分に自宅で家族に看取られながら息を引き取りました。
以前から体調が良くないのは知っていたけど
本格的に容体が急変したのは半年くらい前
マイフェアレディプロジェクトの選抜のお知らせをして
その中でメンバーに向けて
彼女にウォーキングの講師の依頼をした時
てっきり
【マジ!!やる!】
て即効返事がくるかと思ったのに
いっこうに返ってこない。
翌日返ってきたのは
【美由起、ありがとうね。凄く嬉しい。昨日直ぐに返事返せなかったのは
やりたい気持ちはやまやだけど
正直今身体が大丈夫か不安で・・・
受けちゃえ!とも思ったんだけれど
皆に迷惑かけちゃうから軽はずみにYESとは言えない】
この時に事態は深刻なんだと悟りました。
【いいよ。いつでも待ってるから。私は志穂に頼みたいの!
後期に回すから。だから今は身体を大事にしてね】
【ありがとう!】
その後
急遽入院になり連絡が来て
直ぐに病室に駆けつけました。
私が以前A型肝炎になって救急病棟に入った時
彼女が駆けつけてくれたように。
そう私は27歳の時
劇症肝炎の手前
【大丈夫。平気だから。今は誰にも会いたくないの】
と見舞いを断った私に
【馬鹿!平気なわけないでしょう!!こういう時は会いに来て!って言うんだよ!】
て
無理やりやってきました。
そして自分が以前癌だった事も打ち明けてくれて
お守りにと
天使の形をした水晶を私にくれました
その水晶は今も大切に持っています。
この数か月間
病気のそぶりは周りに一切見せず
元気な振りをしながらの闘病生活はさぞかし大変だったと思います。
それは本人の
周りから病人扱いされたくない、知られたくない
だから内緒にしておいて欲しい
という強い希望からでした。
彼女の希望どうり
私は最期まで彼女を病人扱いしませんでした
【悪いけど私志穂を病人だと思ってないから。よろしく】
て
【助かる(笑)それでよろしく!】
て
更に容体が悪化しても気にせず
【もう、癌治っちゃってるからさ~早く玉川お散歩しよ~よ】
て(笑)
だから彼女の冷たくなった頬に手を当てても
正直よくわからなくて
え?何で死んじゃったの?
て。
【さっさと治しちゃってよ。頼みたい事沢山あんだから】
て言ったら
【待ってて!さっさと治しちゃうから】
て。
ラインを見返せば噴き出すような会話を最期まで繰り広げてました
究極の砂時計BODYプロジェクトでは2期生メンバーで現役のモデルとして
お披露目会前に自らポージングの指導を申し出てくれて
プロジェクトの成功に大いに貢献してくました。
マイフェアレディプロジェクトに選抜した時は
【ありがとう!!これで更に生きるモチベーションになったわ!!】
て。
Bride of japanのファイナリストになった時には
【絶対に優勝するから応援してね!】
て。
温熱最中に貧血起して緊急入院した時も
調子乗ってちょっと院内を歩き過ぎて
慌てて車椅子で迎えにいって
看護師さんに怒られちゃうね(笑)て
ぜーぜー言いながら
でもあまりにも辛そうな彼女を見て
手を握った瞬間
耐えられなくなって
不覚にも涙を流したら
彼女も涙を流して
【大丈夫。絶対に死なないから】
て。
そう
それが生きてる彼女を見た最後の日。
一切の薬を拒み
抗がん剤も放射線治療も拒み
猛烈な痛みと最後の最後まで戦い続け
ようやく彼女は痛みから解放されました。
正直この数日間
半分放心状態で周りの方に対して配慮が足りずご迷惑もおかけしたと思います。
仕事もしているんだかしていないんだ
かよくわからないような状態で仕事していました。
でもようやく今日
お疲れ様
もう痛くないんだね。安らかなんだよね。
ゆっくり休んで頂戴ね
そんな気持ちになれました。
後で彼女のブログを見返したら
最後まで弱音ひとつ無い
なんて凄いのあなたって人は(笑)
志穂のブログ
少しでも
三国志穂という一人の女性が
どんなに強く美しい人だったかって事
皆様に知っていただけたらって思う。
そんな志穂に手紙を書きました
Dear Shiho
2010年撮影
最後に
彼女が私に送ってくれた
マイフェアレディプロジェクト参加への
決意表明で本文を終わります。
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そして、
女性とは?
三国志穂