真緒は忘れていたことを思い出した。
小雨が降って来て、サッカー部の部室へ走っていく大和君を何気なく見ていたら、真緒の心の中にあまりにも突然、ある感情がよみがえってきて戸惑い、訳も言わずに一緒にいた玄関横のドアの側に沢木君を置いてきてしまった。
何故、こんな大切なことを記憶から無くしていたのか分からない。
蘭が中学時代に好きと言っていた同じ学年の一摩君は真緒と少しだけ家が近いこともあって、小学生の頃も優しくしてもらっていた。
一摩君のとても人柄の良さが出ている言葉は、今よりもっと自分に自信のない大人しかった真緒には、いつも安心出来て嬉しかった。
でも一摩君は時折、影のある表情をする時があって、自分と同じで実は人には言えない悩みがあるとかなどと勝手に想像していた。
真緒が小学6年生だったあの日は、放課後に雨が降っていた。
少し遅れて帰っていた時、下駄箱の横の出口で真緒は、自分の傘を持って来てない上、借りる置き傘もなくて困っていた。
でも、濡れて帰ってもいいと思っていた。
そこに後から来た一摩君は自分の傘を差し出してこう言った。
「これ使って帰って、家から自分の傘を持ってここに帰って来なよ」
学校から真緒の家は近いから、こんなふうに言ってくれて、その言葉に従うことにした。
その日は、一度家に帰ってから泉海の家に遊びに行く約束をしていたから、泉海が待っていると思って早く帰らないとと思って、家までの道を焦って走った。
そして、本当の自分の記憶はそこまでしかない…
借りた傘で家に帰って荷物を置き、自分の傘をさして学校に戻って一摩君に彼の傘を返した…はずだった。
でもそれは、間違った記憶だった。
自分が作り出した記憶。
真緒は小学校へ戻る途中で、前から来た傘さしの高校生の自転車とぶつかって気を失った。
本当は一摩君を学校で待たせたきりだった。
彼はなかなか戻らない真緒をあきらめて、ちょうどいた男友達と二人で傘に入って家に帰った。
それが大和君だったのは、後で大和君から聞いたはずだった。
一摩君とは何も話してない。
真緒は病院に運ばれて、意識が戻って手当てを受けた時には、なにもかも手遅れだった。
真緒の顔にその時の傷がある。
もっと幼い頃に自転車で怪我した傷は、手足に少し残っている切り傷だけだった。
結局、次の日に痛々しい顔で学校に行ったくらいの真緒のケガだったけど、永遠に残る後悔も心に刻むことになった。
泉海の身に何があったのか動揺する中、小学6年生の真緒は心の中から何かを必死に追い出そうとした。
耐えきれずに記憶から消して生きてきた真実。
泉海はちゃんと注意深い女の子だった。
両親も一人で留守をさせることを心配して、よく電話を掛けて来ていた。
あの雨の日の夕方、犯人は泉海の家に行ってチャイムを鳴らした。
泉海がドアを開けた時、真緒は病院にいた。
泉海から好きな男子は一摩君と聞いていた。一摩君は誰にでも優しくて、転校して来た泉海にも親切にしていた。
一摩君が泉海をどう思っていたのかは知らない。真緒はただ、泉海が笑顔でいてくれるといいと思っていた。
泉海が自宅に押し入った犯人に薬物を嗅がされて意識を奪われた事件に巻き込まれてからは、一摩君とは顔を見ても話さなくなっていた。
一摩君に借りた傘は次の日に返したのかも覚えてない…
降ったり止んだりの雨に濡れながら、どうにか蘭の入院先の内科に辿り着いた真緒は、沢木君に謝りの連絡をして、ハンカチで髪と制服を拭いた。