二、祭祀・軍事部族だった物部氏…物部氏と秦氏2

 

 次に、多くの有力氏族の先祖が、第二代から第九代までの天皇が空位した「闕史(けっし)八代」の関係からか 、『記紀』では第十代崇神朝から活動を始める。

 同じく物部氏も崇神朝において、三輪山の大物主神祭祀に関し、伊香色雄(いかがしこお)を「神班物者(かみのものあかつひと)」とする卜占があり、崇神七年十一月に祭神物を作った。

すると、流行っていた疫病が収まり、国内が静謐(せいひつ)になったとされる。このことから、物部の「物」には霊魂や物の怪を祭祀するという意味があるとされる。

 次の垂仁朝では、朝廷五太夫のなかに物部十市根(とちね)が見られ、仲哀天皇崩御後は物部胆咋(いくい)宿祢が、中臣・大伴・三輪氏とともに四太夫の一人として宮中を守ったと『旧亊本紀』にある。崇神朝代には物部一族(主に穂積氏)と天皇家との通婚も数例、『記紀』に残されている。

 「物部」の名が示す通り、元は祭祀具のほか武器という「物」の鍛冶・製造や管理を管掌としていた。だが次第に軍事・警察・刑罰という仕事が主体となり、「物部百八十伴」といわれるほど、多くの部民・隷属民を持った。物部氏は、ほぼ同種の軍事的職掌を持つ大伴氏と並ぶ有力氏族へと変貌を遂げたのである。

 履中朝では、物部伊莒弗(いこふつ)が大連となり、五世紀代に頻発した皇位継承争いにおいてその軍事力を示し、雄略朝にも物部目()が大連として天皇の信頼を受け、最高執行官の役割を果たす。同朝代に伊勢で叛乱した朝日郎(あさけのいらつこ)を、物部莵代(うさしろ)宿祢、物部目連が討っている。

 先にも少し触れたが、物部氏がその強大な軍事力を発揮したのが、継体天皇廿(にじゅう)二年(五二八)に筑紫を中心に発生した「筑紫君磐井の乱」であり、物部麁鹿火(あらかい)大連らが鎮圧にあたった。

 欽明朝になると、大伴金村大連の失脚により、物部尾輿(おこし)が大連として前面に出たが、百済から贈られた仏像をめぐり、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と、大連・物部尾輿や中臣鎌子らの廃仏派が争う。

この抗争は長引き、稲目・尾輿の後はそれぞれの子の蘇我馬子、物部守屋が代替わりしても続いたが、結局、用明天皇崩御後に守屋大連が滅ぼされ、河内国渋川郡(大阪府八尾市)にあった物部本宗家はここに絶える。

 

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