加速した原爆開発…完成していた日本の原爆16

 

 仁科らが、最終的に六フッ化ウラン製造の準備ができたのは、1943年の終わりから1944年の初旬だった。水晶の壺に金属ウラニュウムと固体のフッ素を入れた。壺には丸首がついていて、蒸留用の水晶の壺と繋がっていた。

 熱が加えられるとフッ素ガスが放出され、酸化ウラニュウムと反応し、発生したガスは上に上がり、二つの瓶の中で冷やされて固体になった。その底には、わずかな六フッ化ウランが溜まっていることを確認すると、研究者全員が歓喜に沸いた。

 一方、その頃、階下にいた竹内は、分離筒の完成に全力で取り組んでいた。それは高さが16フィートあり、巨大な湯沸かし器に見えた。

 内部には二つの筒があり、内側の筒の内壁はヒーターコイルで温められ、外側の筒は冷却水で取り囲まれていた。間隔が二ミリの二つの筒の間にガスが送り込まれ、軽いウラン235は熱い壁の沿って上に上がり、分離筒上部の収集機に集められ、重いガスは水で冷やされた壁に沿って底部に下りて行った。

 ただ、六フッ化ウランは極めて腐食性が高いため、パイプを作るには金か白金が最適だったが、コスト面から銅が使用された。

 実際の分離筒の製造は、東京から車で四時間の日光にある福島工業に委託された。分離筒の製造には、コンクリート、ゴム、銅、アスベスト、ポンプ、水、鋼、サーモスタット、ヒーターなど多様な資材が必要となったが、航空本部はすべてその要望に応じた。

 そして1944年3月12日、分離筒を包む、約700フィートにも及ぶ二階建ての建屋が完成した。戦局は悪化の一途を辿っていた。

 

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