将門「新皇」を名乗る…安倍一族と東国戦争7

 

 将門としては、今回の行動は護や良兼・良正の暴虐を懲らしめる、正義の行いと考えていた。が、事態は想定を越えて収拾がつかなくなる。

 『将門記』によれば、将門の側近で武蔵権守に任じられていた興世王が、「一国を虜掠(りょりゃく=占拠)しただけでも大罪だ。いっそのこと坂東全域を虜掠して、朝廷の出方を見よう」というと、将門は「自分は桓武天皇の五代孫だ。八か国を虜掠したあと、京の都も虜掠してしまおうか」と豪語したという。

 十二月十一日、まず下野国衙庁に進軍すると、受領は跪いて将門に印鎰を捧げた。十五日には上野国衙庁で印鎰を取り上げ、両国受領を京へ送還すべく信濃国まで護送し、碓氷峠(うすいとうげ)を閉ざして朝廷からの征討軍(官軍)に備えた。

 将門はこの時、叛乱を起こさざるを得ない胸の内を、十五日付の忠平宛て書状で切々と訴えた。

 十九日、上野国衙において、将門の「新皇」即位式が挙行された。八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れ、菅原道真作の「位記(位階を授ける公文書)」によって、八幡大菩薩の位を将門に授けるとの神託を告げた。

 将門が位記を押し頂いて再拝すると、軍勢は鬨の声を挙げて一斉に将門を伏し拝した。興世王が「新皇」の諡号(しごう)を奉呈すると、将門は軍勢を前に、「武芸は国家の支え、勲功は立身の糧である。我が武名を坂東・京畿に轟かせた。現代は実力がある者が上に立つ時代だ。海外では近年、耶律阿保機(やりつあぼき)が渤海国を滅ぼし、契丹国を建てたという。坂東八か国を占領したからには、朝廷が攻め寄せてきても足柄・碓氷二関を固めて粉砕しよう」と演説した。

 ここで確認しておきたいことは、確かに「新皇」号の奉呈が事実だとしても、八幡大菩薩の神階は一品(いっぽん=天皇の子の位階)であり、将門は八幡大菩薩の化身ではあっても、決して「天皇位の僭称(せんしょう=偽天皇)」をしたわけではないということである。

「新皇」即位は、軍神たる八幡神と、宮廷を恐怖に戦慄させた怨霊・菅原道真によって、将門に坂東虜掠の正当性が付与される儀式であった。

 これに対し朝廷は、将門叛乱軍対策を次々に打ち出す。天慶三年(九四〇)一月十一日、東海東山道諸国宛て「官軍動員官符」が発せられる。

 

 「反逆者は必ず天誅によって没落する。神明が神兵を出現させてくれる。天下はすべて王土、国内人民は皆公民、憂国の士は官軍募集に呼応し、田夫野叟(やそう)も身命を賭して、この救国の戦いに馳せ参ぜよ」

 

 諸国武士・負名層に蹶起を促す檄文であった。「魁師(かいすい=将門)を誅殺すれば五位の位と田地の賞を、次将(興世王ら)を誅殺すれば勲功に応じて官職・位階を与える」と褒章を約すと、坂東諸国の反将門勢力・傍観勢力は、身震いしながら蹶起したのである。

 十三日には東海東山陽道追捕使が隋兵百人を連れて内裏に参上し、忠平の閲兵を受けた。山陽道が含まれていたのは、この時期ほぼ同時に「藤原純友」が反乱を起こしていたからである。まさに律令体制を根底から揺さぶる大乱が起こっていたのである。

 十四日、忠平は臨時除目を行い、下野国の藤原秀郷、常陸国の平貞盛、上総国の同公雅、相模国の橘遠保(とおやす)ら八人を、将門防戦将として「坂東国々掾(くにぐにじょう)」に任じ、押領使も兼帯させて将門討伐軍の主力部隊とし二月八日、紫宸殿で朱雀天皇から節刀(最高軍事指揮権を象徴する刀剣)を賜与された大将軍・忠文とともに、坂東に向け進発した。

 

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