シベリア侵攻を要請されていた日本 石原莞爾論、一四

 

 ところで、一九四一年六月二二日、ドイツ軍は約三〇〇万人の兵員と三〇〇〇両の戦車からなる大軍団を以ってソ連国境を突破、第二次世界大戦最大の戦い「バルバロッサ作戦(独ソ戦)」を開始する。

 「独ソ戦の真相」については、大凶作で人民の不満が政権に向かうことを恐れた、スターリンとヒトラーの合作だったことなど奥深い秘密がある。首都モスクワを包囲したヒトラーが、当初計画した通りモスクワを占領していれば、第二次世界大戦の帰趨は早期に決していたといわれているが、ヒトラーはなぜか軍を引き、南方のスターリングラードへ向かう。

 そんな中、ヒトラーから再三にわたって関東軍を北進させ、ユーラシア大陸の東西からソ連を挟撃するよう要請が入っていた。だが、日本側は態度を決めかね、シベリアに侵攻する「北進論」と、南方の資源地帯を目指す「南進論」のはざまで、国論は揺れ動いていた。

 一方、これに先立つ一九四〇年(昭和一五年)九月二七日、それまで対ソ強硬派であった外務大臣・松岡洋右は、「日独伊三国同盟」を締結した翌年の四月に「日ソ中立条約」を結んでいるが、その直前、チャーチルから「ヒトラーは必ずソ連に侵攻する(ソ連と条約を結んでも無駄)」との情報を得ていた(東京裁判証言による)。

 しかし、ドイツ訪問の際、対英戦に手子摺って、対ソ戦のタイミングを躊躇していたヒトラーから、インド洋などで英国へ軍事的圧力をかけるよう要請され、「私は日本の指導者ではないので確約はできない。帰国後、貴国の希望を討議する」との言葉を残し、モスクワに旅立った。

 松岡の目的は、日ソ中立条約を締結して三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア同盟(四国協商)」を結ぶためであった。松岡の狙いは、四国の力で米国にアジアから手を引かせ、日支事変(日中戦争)を終わらせることにあった。

 しかし、チャーチルからも指摘されたように、すでにこの時点でヒトラーのソ連侵攻への意思は固まっており、その上、最終的にはスターリンからも裏切られ、ドイツを警戒する米国をも敵に回し、利用される形になったのである。

 このように考えると、「独ソ開戦」は、日本にとっては近代以降、長い間の懸案であった「対ロ(対ソ)問題」を一気に打開する絶好の機会だったといえる。好機は、ドイツ軍がモスクワを包囲したときの「バルバロッサ作戦」「タイフーン作戦」だけではない。そのあと、一九四二年~一九四三年にかけて行われたスターリングラードを目指す「ブラウ作戦」時にもみられた。

 この時期、ドイツ軍とイタリア軍は北アフリカのエル・アラメインで英国軍とも激しい戦いを続けており、日本に対し、「日独伊三国同盟(条約)」に基づき、インド方面への侵攻による英国ソ連、さらには英国支那(蒋介石)への支援ルートの遮断(西亜打通作戦)を要請している。

 この作戦は、日米開戦前の想定研究『秋丸機関報告書(英米合作経済抗戦力調査)』を前提にした『対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案』でも立案されたもので、真珠湾攻撃により米国を敵にしなければ、第二次世界大戦における日独勝利の公算は高いとされてきた。

 真珠湾攻撃の立案・実行者である山本五十六の正体については保留するが、参謀総長・杉山元は、「イタリアよりインド進出、ドイツより対ソ攻勢の要求在り。検討せよ」と、大本営作戦部長・田中新一に命令した。実際、これを受けた総務部長の若松只一が「ソ連攻撃」を具申している。

 ところが、東條英機側近で(統制派)軍務局長・佐藤賢了が反対した。統制派の年来の主張は、「支那全土を攻略し、その後ソ連と和平を結ぶ」という、ソ連に対し極めて甘い希望的観測に基づいたものであった。

 

次回に続く…