こぼれ落ちる子どもたち | 葉っぱひらひら

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ギャル化した一人娘とメタボ気味のパパと平凡な日々を送っています。

仕事をしていて思うことをつらつらと…チーン


たまに、問題を起こしたお子さんやそのご家族と会う機会があります。単なる非行のみならず、窃盗、暴行、傷害、恐喝…時に薬物。多くの家庭にとっては全く無縁の、新聞やニュースに躍っているだけの単語です。

同じような年齢の子を持つ身として、ご家族の姿を見る度にいたたまれなくなります。


はたから見ればなんの問題もない家庭にいながら、何かのきっかけで転がり落ちてしまう子。或いは家族がいない、またはいても機能せず、寄るべない環境から周りに流されてしまう子。

勉強ができない、学校がつまらない。それでも通えと言われる義務教育。勉学に意義が見出せず、親の手前の高校進学。親や先生に反抗することで存在意義を確認し、溜まる鬱憤を非行行為で発散する。

罪悪感の欠如、想像力の欠如、そして未来に向かう意欲の欠如。


一生懸命勉強して、無事学校を卒業し、立派に就職して…と私たちが思い描く子の幸せ、同じ目標を掲げる学校や社会のシステムからポロポロとこぼれ落ちていく子どもたち。


周りから「どうしようもない子」とラベリングされ、なす術もないと放置。ドラマでよくある、「そんな時に素晴らしい人に出会い立派に更生しました!」なんて展開はリアルではほぼ皆無で。

一旦こぼれて転がり始めたら、そのあとはお決まりのパターン。悪い繋がりは断ち切れず、年齢が上がるにつれ、更に危険な行動へと発展してしまう。

どこかで、何かが、早い段階でその流れを止めることはできなかったかと残念でなりません。


家族や学校、周りの大人全てに背を向けがちな難しい年頃。大人なんてみんな敵。説教という訳のわからん言葉を垂れ流すウザいだけの存在。

そりゃ同じ価値観を持つ同じような友だちとつるんで、享楽的な時間を過ごす方が楽しいよね。


それでも自分のために泣いてくれる大人はいるし、助けてといえば手を伸ばしてくれる大人は必ずどこかにいる。

自分が悪かったのだと涙を流して苦悶するお母さん。一生懸命貯めたお金で示談金を準備してくれたおばあちゃん。あの子どうしてるかなと心配してくれる近所のおばちゃん。

ほんの少しだけでいい、想像力を働かせて欲しい。

他人を殴るエネルギーがあるのなら、流される自分自身を殴り倒し、立ち上がって欲しい。

親がだめなら学校に、それでもだめなら近所に、友だちの親に、親戚に、行政に。

「このままじゃだめだ。何とかしてくれ」と大人にSOSを出して欲しい。


とにかく勿体ないんです。

こんなに若くて健康で生命力に満ちていて、いろんな可能性を秘めているのに。この先の長い人生を放棄しようとしている姿が。

ものすごく価値ある存在になれるはずなのに。


こぼすは「零す」とも書きますね。

この漢字、人が頭を下げて天に雨を乞い願い、その願いが神様に通じて「静かに雨が降り始める」様子を表しているそうです。

とすれば、零れ落ちる水滴はとても無垢で大切なもの。まさに子どもみたいだと思いましたびっくり

いま零れ落ちようとしている子ども達、すでに零れてしまった子ども達。

掬い上げる術はないものかと、悶々と考えています。



そんな時、映画(あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら)を観に行った娘から、


「号泣した。人生大切にしよーと思いました」


とLINEが来ました。


そうそう、簡単な言葉だけどね。人生を大切にしたいと思うってね、まじそれ大事真顔

自分の価値を自分で認めてあげるってことだもんね。


生きる価値は生まれながらに平等にあるはず。それを気づかせてあげるのが大人の義務ですかねぇ…。



まったくの余談ですが…


零という漢字、コナンの安室さんで有名になりましたか。ちなみにわたしはいい歳してキッド様推しですが…(//∇//)

取り止めのない記事でごめんなさい滝汗