今、私が取り組んでいる戦時下の恋文https://www.facebook.com/114ichirindou?fref=ts
について、少し紹介させてください。

戦時中、戦地へ送る手紙に住所はありませんでした。
例えば、宛先は『中支派遣江部隊着付 南部部隊 木村部隊本部 歩兵中尉 山田藤栄様』という具合です。

私は実はこの恋文を手にするまで、そんなことも知らずにいました。想像力の欠如で、お恥ずかしい限りです。


 考えてみれば当たり前のことなのですが、軍隊は常に、移動し続けており、住所など役に立ちません。明日はどこに行かされるかわからない、というのが多くの一般兵士たちの現実です。そこに自分の意志などありません。

戦争というものは、いわゆる上層階級と言われる人たち以外の、多くの人の「意志」をどんどんつぶして、ないものとする。そういうものなのだ、と改めて思ったりもします。これからもし、何かが起ったとしても、今のようにインターネットが普及していると、昔のようにはいかないのでしょうか。そうだと信じたいのですが。

さて、私はこの妻からの手紙を読みながら、度々出て来る「お父様は今頃、何処に居られますか?」の一文に触れる度、私も同じ様に「この頃、藤栄氏はどこにいたのだろう?」と単純に思う様になりました。

時折、手紙の中に出て来る地名「奉天」「徐州」、いや、だいたい満州というところが、今の中国のどの辺りで、どれくらいの大きさであったのか、そんなことも知らなかったのです。ただなんとなく、しか知らないことの多さにも改めて気づきました。

また、手紙の中には、「お便りのない間は元気で居ると思って下さいとのお便りを頂いておりますが、それでも案じられてなりません。今、お父様の所在は新聞紙上では不明です」などとも書かれており、この時代、新聞がいかに一般国民にとって重要な情報源であったのかもよくわります。そして、情報操作された見出しにすっかり躍らされていたことに気づくのは、いつの時代も、全てが終ってからなのかもしれません。

この藤栄氏の戦中の足取りを知りたいと思っていたときに、ある方から「軍歴証明書」というものがあることを教えていただきました。そんな証明書があることも私は知りませんでした。
「厚生労働省に問い合わせるとわかるよ」とのことでしたので、早速ネットで調べ、そして直接電話をしたのです。担当窓口の方が丁寧に教えてくださいました。藤栄氏の場合、陸軍所属ですので、厚労省の管轄ではなく、各都道府県の社会福祉担当部が管理・保存していることがそこでわかりました。
ちなみに、海軍ならびに、陸軍の中でも高等文官・従軍文官については、厚労省の管轄です。

早速、藤栄氏の本籍地である福井県健康福祉部地域福祉課に問合せ、 開示請求できるのは本人と遺族に限られているので、喜久代さんに戸籍謄本等、親族であることを証明する書類をいくつかを用意してもらい、それを提出して、数ヶ月後に送られてきたのが、この写真の軍歴証明書です。保護・恩給グループの前川様には、原文のままでは読みにくいのでは、とワードで打ち直して下ったものまでご用意いただき、大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。

ちなみに軍歴証明書とは、陸軍・海軍の元将兵の記録を残したもので、恩給や保障を受ける際の証明を目的として作成されたものです。書面の内容としては、本籍、官職、叙位叙勲以下、招集時期、出航した港、配属、任官、進級、従軍記録、賞罰、傷病と治癒に関する記録、招集解除時期などが詳細に記されており、パソコンもインターネットもなかった時代によくぞこれだけ詳細なものを遺せたと驚いてしまいます。

例えば藤栄氏の場合、昭和13年1月23日南京出航、1月28日大連上陸、1月31日大連出発、2月2日山海関通過、2月4日嵌頓着、2月7日嵌頓発、2月9日水治鎮着・水治鎮警備、3月7日彰徳着、3月7日至4月10日彰徳付近警備、4月11日占領地粛正戦彰徳西方地区の戦斗に参加……というように。

これで、二人の第一子、喜久代さんが誕生した昭和13年3月31日、その日、夫は彰徳にいたことがわかりました。この時期、夫からの手紙がなかなか届かず、淋しい気持ちをぶつける妻の手紙が残っていますが、これだけ移動が多ければ、夫が手紙を書くのもままならなかったことが容易に想像できます。

また、昭和19年に目をやると、6月26日牡丹江出発、同日、鮮満国境通過、6月28日釜山着、同日、下関着、6月29日大阪中部軍司令部着、7月16日大阪出発、同17日福岡着、同18日福岡出発、20日マニラ着、同26日マニラ出発、同26日マバラカット着、9月5日マバラカット出発、同日、マニラ着、9月7日マニラ港出発、9月13日ダバオ島上陸、同日、ダバオ州ミンタル着・・・といった具合に記されており、驚くべき貴重な情報で、南方戦線へ向かうまでにどういった経緯を経ていたのかもわかるのです。

実は、この軍歴証明書を手にするまで、なぜ、この夫婦の恋文が昭和13年12月で終っているのかがわかりませんでした。昭和14年に、藤栄氏
は一度、復員し、日本に戻って来ていたことがわかり、膝を打ちました。同じ屋根の下で家族が暮せていたのかはわかりませんが、そうであれば、恋文を綴る必要がなかったことに納得でした、そして、家族は昭和15年に満州へ渡っています。

この軍歴証明書を初めて喜久代さんに渡したとき、喜久代さんから涙が溢れて、溢れて、どうしようもなくなった様子を私は忘れられません。記憶の中にあるお父様はいつもどこか遠くを見つめ、寡黙で、ただひたすら家族の為に働き続けた人だったそうです。その父がどれだけ過酷な日々を送っていたのか、この足跡がどんな言葉をよりも雄弁に、時を経て静かに喜久代さんに語りかけたのです。