一凛堂・稲垣麻由美のブログ
このブログのヘッダーを作ってくれたWEBデザイナーである友人が今、

福島の渡利地区にいる。


彼女は元々は横浜育ち。

結婚して鎌倉に家を持ち、仕事を通じて彼女と私は知り合った。


その彼女が、ご主人の転勤で福島に住むようになったのは2年前のこと。

最初は、「寒い」「暗い」「曇りが多い」「遊ぶところがない」「雪かきばっかりしてる」・・・と、とにかくブツブツ。

そして、「美味しいのは日本酒だけだ!!」と空を仰ぎ見ては、わめいていたようだ。


横浜に帰りたい,

湘南の風が恋しい。


そう言っていた彼女だったが

震災を機に大きく変わった。


目の前で、懸命に、黙々と文句も言わず

辛抱強く現実と向き合う東北の人々の姿に心底感動したのだという。


大きな怪我もせず、子供がいない自分だからできることがあるはず、

と、震災直後から人が変わったように動きだした。


地域の人々の安否情報を発信するかわら版のようなものを発行し、

公民館やら学校に点在する親族をつなげることを始めた。

実際に足を使って情報を集め、手書きで発信するその1枚の紙が

どれほど、あの場では貴重なものだったことだろう。

また、自宅を全国から駆け付けてきたボランティアの中継地点として開放。

南相馬にいる親族を助けに、合羽を着てとにかく行ってきた、という報告を受けたこともあれば、

しばらくすると、置き去りにされた動物たちの世話をし始めた。

人間の都合で飢え死にしていく、たくさんの動物達を見て見ぬふりはどうしてもできなかったという。


だけど、そんな彼女も震災半年後から、

少しずつ、思うように身体と心が動かなくなっていった。

「頑張りすぎだよ」と誰かに言われるたびに、きっと彼女は深く傷ついたはずだ。

だって、「自分は何もできていない」といつも言っていたから。


ご主人の判断で、とりあえず実家がある横浜に彼女は強制送還された。

「まずは、とにかくゆっくり休め」とのことだった。

そして、「放射能心配のないところにいて欲しい」という親族の願いによるものだった。

(ご主人は、仕事の都合でどうしても福島を離れられない状況だった)



だが、横浜に帰ってきた彼女は、更に体調を崩すことになる。

「自分だけがこんな平和なところにいていいのか」とつい自分を責めてしまう。

眠れない、食べれない・・・。

「ここが同じ日本なのか、東京と福島は、なぜこんなにも違う?」

そんな思いが、どこへも向けようのない怒りに変わり

誰にも会いたくない、と引きこもる日々。


そして結局、彼女は年末に大好きだったはずの横浜を離れ、

大の苦手だったはずの福島へ帰っていったのだ。



下記は、つい先日、彼女からもらったメールの一部。

了承を得て、ここに転記する。


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6月から避難していた間に、福島市は深刻化していました。
私の家がある場所は、中でも特に厳しい状況であることを知ったとき、
偶然とはいえ、またどうして・・・・という重苦しい気持ちで
情けないことに、
毎日毎日どうやったら現実から目を逸らせるだろうかと
そればかり考えていました。

しかし、どうやら、横浜へ帰っても苦しい、
福島へ帰っても苦しい
今の自分の現実からは逃げられないのだと、
半分前向きにあきらめました。

福島の中でもとりわけ深刻な土地に暮らし続けるならば、
目を開いてよく見てみるしかないと思いなおし、
現在、報道などでご存知かもしれませんが、
渡利地区(私の住むエリア)で、未だ避難できずに
苦しんでいる子ども(親を含め)を救うプロジェクトに
参加することにしました。夫の反対を説得し・・・。


幸いというか不幸にも、サポートしていた人たちが皆避難してしまい、
チームが十分に機能していないことを知り、
web制作という形で手伝えるはずだと提案したところ、
先方はとても喜んでくれたので、
また、やっかいごとに首を突っ込み始めています。

現在は、夫も、”自分自身(わたしのこと)の生活と両立させること”
を条件に理解してくれました。



プロジェクトは、東京の全国の3団体と、現場のチームの4団体で
構成されておりまして、
私はもちろん、現場チームです。

現場チームは、Save Watari Kids という団体です。
http://save-watari-kids.jimdo.com/


首都圏では、すっかり福島のことは過去のことにされているような
印象を受けますが、心ある人たちが、現実的かつ具体的な知恵を
たくさん提案しあって、福島を助けようとしてくれていることを改めて知り、
私自身救われたような心持で、今は少しラクになりました。

この間、稲垣さんが言ってたこととはニュアンスが違うのかもしれないけど、
やっぱり東京なんですねー。

雪の積もる暗い渡利地区の公民館で、駆けつけてきてくれたその人たちと
会ったとき、パーッと光が差したようなそんな感じがしました。

福島で閉塞している中では生まれないアイデアがどんどん
生まれてくる・・・。そして、それぞれの人たちがとても
エネルギッシュですね。

『みんな、福島のひとの声を聞きたがっています!』

と言われたとき、泣きそうになってしまった。。。


まだまだ何十年も続くであろう福島の問題ですが、
今度は、少し体力を温存しながらサポートを続けていけたらと
思っています。
(私は昔からチータ?らしく、瞬発力はあるのですが、長期戦は弱点のようです。)

相手がもの言えぬ動物のときは、苦しく、自分が壊れてしまいましたが、
今度は相手が人間なので、自分のハートが壊れることは少ないと思うのも
決断した理由です。
怒りは沸騰しそうですけど。ハハハ。これはしょうがない。

東北以外の人間の感覚と、
現場の感覚の中間地点のような私の立場だからこそ、
できることがあったらよいのですが・・・。


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それぞれの立場で、復興のためにできることをしていくしかないのだと思う。


と、偉そうなことを書いた私は、何もできていない。

だから、いや、せめて、こんな人がいる、ということと、

渡利地区の活動

《Save Watari Kids》 http://save-watari-kids.jimdo.com/
のことを少しでも紹介していけたら、と思っている。


今日は1月17日。

神戸出身の私には特別な日でもある。