員の活躍を紹介するシリーズ、今回は仙台支部会員で唯一人、自治体の議員として地域の課題解決に取り組んでおられる 利府町議会議員 及川智善 氏(昭45普卒)へのインタビューです。今回も、リモートでご協力いただきました。

議場本会議での質問(令和元年6月) 

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会員活躍状況(第7回/前編)

 

利府町議会議員 及川智善 氏(昭45普卒)

 

令和4年5月29日(日)

聞き手:仙台支部会 副会長 畠 敏郎

【 一高時代 】

畠)及川先輩、日ごろ支部会の活動にご協力いただき、また本日は6月議会のご準備でお忙しい中インタビューに応じていただき、誠にありがとうございます。

 仙台支部会の会員で議員に就任してらっしゃるのは、及川先輩お一人だけだと思いますので、今日は、議員になられたいきさつなどをお伺いしたいと思いますのでよろしくお願い申し上げます。

 先ずは、ご卒業が昭和45年、山目中ご出身とのことですが、一高時代はどのような生徒でした?

 

及川) 高校在学時代は音楽部に所属していました。山目中学校の在学の頃、一高混声合唱部の定期演奏会でその美しいハーモニーに出会い感動し進学するなら一高だと心に固く決めたことは今でも鮮明に心に残っています。2年生の時、合唱コンクールが有り、岩手県で優秀校に選抜され東北大会で秋田市へ、残念ながら賞に及びませんでした。非常に悔しい思いをしました。もちろん私一人の力ではどうにもなりませんでしたが、ここまで文化部でありながら合宿などして部員の多くが努力を重ね入賞を望んでいた思いが叶わず強く号泣した思い出があります。

 

 学業成績は学年が上がっていくほど芳しくなく、下位グループに属していました。3年生は私立文系のD組に所属でした。57名の大所帯でしたが個性的な方々が多かったように記憶しています。

 現在の仙台支部会長熊谷枝折君も同じクラスでした。

 

 大学入試では早稲田大学と立命館大学を受験しました。見事に不合格で浪人生活を余儀なくされました。その年の9月に父が急逝し人生の転換期が訪れました。

 

【 自衛官として 】

畠)お父様が亡くなられ、進学をあきらめざるを得なかったと言うことですが、その先が自衛官と言うのはどのような切っ掛けがあったんですか?

 

及川) 父方の叔父が自衛官であり、強く勧められたことが切っ掛けです。当時の自衛官は職業としての選択は社会的にも低く見られ、フォークソングでも「自衛隊に入ろう」と揶揄された歌までありました。

 

 しかし、①身分が特別職国家公務員であること。②体育会系や理工系だけではなく文系の仕事ができる職種もある。③在職して大学夜間部に通学できる環境にあることなどを考慮して入隊を決断しました。この頃は「国を守る気概」や「国土防衛の精神」等の崇高な精神など微塵も有りませんでした。

 

 多賀城駐屯地に入隊したのは東北で唯一一般の兵から入隊する「新隊員教育隊」が編成され常駐していたからです。

 

【 幹部自衛官を目指して 】

畠)一般の隊員として入隊されてから、幹部自衛官まで昇進されて檜町駐屯地(港区)、神町駐屯地(東根市)や東北方面総監部、司令部、防衛本庁にも勤務されています。

 幹部自衛官は3尉以上ですよね。任官されるまでには、相当のご努力が必要だったと思いますが?

 

及川) 自衛隊は階級社会であり、これにより組織が保たれ機能しています。幹部は組織の中枢であり、苦労はありますがやりがいも同時にあります。幹部に任官するためには一般大学、防衛大学校から昇任するルートと部内選抜で試験により合格して昇任するケースに大別されますが、私は部内選抜でした。

 

 ある階級に任官して一定の期間を経ると受験資格が生じます。当時で60倍を超す難関でした。記述試験科目は一般教養、国語・数学・理科・社会・英語ですね。そのほか自衛隊の共通科目として、戦闘訓練・武器・化学・気象・地形・戦術等があります。

 

 また、体力検定もあって、1500m走・50m走・懸垂・走り幅跳び・ソフトボール投げですが、更に私は会計隊に配属されていましたので会計職種専門試験として、憲法・財政法・会計法・契約・給与・旅費・債権歳入等すべて合格基準をクリアしなければなりませんでした。これが1次試験で2次試験では口述による面接、指揮法・教育法など実地による試験がありました。

 

【 幹部自衛官として 】

畠)正しく文武両道ですね。ご努力の甲斐あって幹部自衛官に任官されたわけですが、下士官のときとはやっぱり違いましたか?

 

 幹部候補生に任官したのが新隊員で入隊してから11年後の31歳でした。陸上自衛隊幹部候補生学校(福岡県久留米市)会計幹部初級課程(東京都小平市)で2年ほど研修を受けた後、一般部隊に配属になりました。神町駐屯地(東根市)の師団司令部転勤は初の単身赴任でした。ここでは師団長の経費管理、6師団管内の予算配分〈福島・山形・秋田〉の仕事でした。

 

 東北方面総監部(仙台)では会計課経理幹部として勤務、当時のМ方面総監は厳しさマックスの方で夕方退勤の頃に会議が開かれ命題付与され、翌朝迄に報告という無理難題を何度か強いられました。このため当時の総監部庁舎は夜通し電気が消える事無く「不夜城」と呼ばれました。

 

 檜町駐屯地内には防衛庁の調達実施本部があって、2度目の単身赴任での輸入課勤務でした。ここでは、米軍との武器輸入業務、訓練役務契約等でした。米軍相手との契約でしたので契約書は英語のみ、アメリカ大使館や外務省、武器関連で通産省など交渉して歩きました。自衛官としては特異な勤務なので官僚の雰囲気を楽しみながら勤務してきました。しかしながら、ここでも国会開催中は待機を強いられ忙しく過ごしました。駐屯地近傍は六本木でキラキラ輝く夜の町を斜めに見ながら、、、。

仙台駐屯地会計監査隊記念式典会場で(平成15年10月)

 

【 働きながら… 】

畠)勤務される傍ら、昭和54年3月には東北学院大学の経済学部二部を卒業されています。激務との両立はご苦労も多かったんではないですか?

 

及川) 時系列で前後しますが、どうしても大学に入学したい思いが強く、通学できる環境が整っている自衛隊に入隊したので、最初に配属された仙台駐屯地勤務の傍ら翌年の昭和48年に大学へ入学しました。

 

 駐屯地居住が義務の新隊員は外出が許可制なので通学でも申請しなければ外に出られません。遠慮しながら通学した思い出があります。通学中に下士官(幹部の前)になる試験に合格し、仙台や東京での研修の2年間、休学せざる得ない状況でした。復学して計6年を費やし、昭和54年に卒業できた時は嬉しく、ほっとした思いでした。

 

【 定年退官 】

畠)平成18年1月に54歳で定年退官されています。自衛官の方は、定年が早いですから…再就職先の斡旋なども手厚いとは思いますが、当時はどのようなライフプランを描いていらっしゃたんですか?

 

及川) 確かに組織としては就職援護制度が確立されていますが、いわゆる防衛産業等へ天下りできる人は高級幹部に限られました。一般事務系統の求職もありましたが競争率が高く高嶺の花でした。私は団体職員か事務職を希望していました。残念ながら成就できませんでした。

 

 しかし、会計職種の先輩がビル管理会社の常務で勤務していました。勧誘され、入社できました。仕事は営業業務で全く未知の分野でした。ただ一つの救いは入札に参加する仕事を与えられた時でした。自衛隊時代に経験した入札業務の知識を活かし頑張った思い出があります。

(後編へ続く。6月13日(月)に掲載予定です。)