会員の活躍を紹介するシリーズ、今回は【 早期発見と個別治療最適化で、膵臓がんで亡くなる患者さんを減らしたい 】と、日夜 病理学研究に取り組んでおられる 東北大学大学院 医学系研究科 教授 古川 徹 氏(昭54普卒)へのインタビューです。今回も、リモートでご協力いただきました。

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会員活躍状況(第6回/前編)

東北大学大学院 医学系研究科 教授

 古 川 徹 氏(昭54普卒)

令和4年4月24日(日)

聞き手:仙台支部会 副会長 畠 敏郎

【 一高時代 】

畠) 古川教授、本日は大変お忙しい中、仙台支部会のインタビューにご協力いただき、ありがとうございます。古川さんとは同級生なんですが、一高時代は全く接点がなくて、まして東北大の大学院の教授にインタビューさせていただくわけですから、何をどう質問させていただければいいのか、タメ口がきけないほど緊張しております。

 ご専門の病理学についても、お尋ねすることになるとは思うんですが、素人にも分かるように教えていただければ幸いです。

 早速ですが、一高時代はどんな生徒でした?

 

古川) 畠さん、お声がけいただきありがとうございます。一高の同級生とは高校卒業後はほとんど交流がなく、思いがけず連絡いただき大変嬉しく思います。

 

 私は高校時代、軟式庭球部に所属していて、入学してから3年の春まで部活に明け暮れておりました。当時の一高の軟式庭球部は結構強豪で、鬼のように練習しており、授業時間を除いて朝から晩まで常時テニスコートにいるような感じでした。朝はコートのローラーがけ、昼はライン引きをやり、授業が終わるや否や部室にダッシュし、着替えてテニスコートに行って、暗くなるまで練習していました。夏休みも毎日休みなく練習で、冬休みも体育館の中でボールを打ち、休みは正月の1日だけだったと思います。

 

 冬を除いてはほとんど屋外にいましたので黒焦げになるぐらい日焼けしていました。冬は大変寒いのですが、体育教官室に行ってガスコンロで手を温めてからやったものです。そんな状態でしたので、高校時代を思い返しても同級生と交流した記憶はほとんどなく、部活の先輩、後輩の顔しか浮かんできません。私自身は運動神経が無い方なのでいくら練習してもさっぱり上手くなりませんでしたが、先輩方が大変強く、県大会、東北大会を通過し、全国大会まで行ったことがありました。

 

 練習があまりにきつい、というか、そればっかりで他には何もできない状態でしたので、一緒に入部した同級生は次々辞めていき、残ったのは私と菅原賢君だけでした。先輩方も4人しか居なくなり、全国大会まで行った時は団体戦の3ペアをぎりぎり構成できる6人のみでした。私が部活を辞めなかったのは途中で投げ出すのは嫌だったのと、辞めて何をするでもなかったので、半ば意地で続けていました。

 

 部活の間は当然勉強の時間は取れず、家で勉強しようとしても疲れ果ててすぐ眠くなってできず、部活から引退してからは放心状態で勉強には全く身が入りませんでした。私は大東中学校を出て一関一高に進学しましたので、一高へは大船渡線で通う「山汽車」組でしたが、部活が終わると疲れ果てて、帰りの汽車に乗るとすぐ眠り、降りる駅を乗り越したことが何回もありました。そんな生活でしたので成績は中ぐらいだったと思います。

 

【 医学部を目指したのは? 】

畠) 菅原賢君ねっ、平泉中でしたよね。懐かしいなぁ。テニスと山汽車通学に駆けた抜けた青春という感じですが、医学部を目指した切っ掛けをお伺いしたいんですが??

 

古川) そんな私がなぜ医学部を目指したのか自分でも不思議に思います。家族や親戚、親しい人に医師がいたわけでもなく、医師がどのような職業なのか、実はよくわかっていなかったと思います。その頃の医学部志望の動機は、病気の人を治すとかいう大上段に構えたものではなく、人の体に興味を持っていた程度というのが正直なところだと思います。そんな感じで、高校時代はほとんど勉強できず、医学部受験に対する備え等も全くない状態でしたが、一浪してなんとか秋田大学医学部に入学することができました。

 

 畠さんは知っているはずですが、私たちの時から共通一次テストが始まり、大学受験システムがそれまでとは全く違う形になりました。しかし、一高ではそれに対する備えはほとんどなかったのでは無いでしょうか。模試を2回ぐらい受けただけだったと思います。私が勉強していなかったこともありますが・・・。一浪の時に問題集を初めてやったような気がします。そんな私がよく医学部に入れたと自分でも思います。しかも、その大学医学部で教えるような立場になるとは全く想定していなかったことです。

 

【 大学生活 】

畠) 医学部って6年じゃないですか。どんな学生生活なんですか?

 

古川) 医学部では、これも今は笑い話ですが、私達の学年は史上最低の新人類と言われたものです。旧システムの一期校・二期校の頃は、二期校だった秋田大学に旧帝大をたまたま落ちた秀才が入学していたのです。それが共通一次で点数に応じて分配される形になり、同級生も皆似たような成績で、お世辞にも秀才といえるような人はいませんでした。大学の先生には「君たちは何を考えているのかさっぱりわからん」とか言われていました。まあ、いつの時代もそうなのですが。

 

 秋田の気候はそれまで自分が知っていた太平洋側の気候とは全く違い、慣れるのに時間がかかりました、というか、結局慣れることはなかったと思います。一番驚いたのは冬の雷でした。冬に雷が鳴るなんてことは太平洋側ではあり得ないことです。冬に始めて雷を聞いたときは、何の音なのかしばらくわからなかったほどです。それでも大学時代は気が合う仲間としょっちゅう飲みにいき、夏は部活、冬はスキーと楽しく過ごしていました。

 

 大学でも性懲りも無く、軟式庭球部をやっていました。実は医学部には硬式庭球部はありましたが軟式庭球部はなかったので、自分で作ってしまったのです。その自分が作った部が現在まで綿々と続いており、毎年知らせが来るのですが、今では結構強豪になっていて、後輩達が楽しくやっているようなのでよかったかなと思います。

 

 卒業が近づいてきて進路を決める時に、自分はどちらかというと手を動かす方が好きだったので外科を志望することにしました。また、医師になったらやはり自分が育った土地で働きたいと思い、東北大学の第一外科にお世話になることにしたのです。秋田大学の外科の教授が東北大学第一外科から来た先生でしたのでその先生に紹介してもらいました。

 

【 研修医として 】

畠) 何だかんだ言ってもテニスがお好きなんですね。

 さて、大学を卒業して、研修医として国民健康保険五戸総合病院(青森県三戸郡五戸町)へ勤務されたのが最初ですね。五戸総合病院は、当時は200床を超える総合病院で地域の中核病院だったわけですが、研修医の時はご苦労が多かったと思います。どういったことが大変でした?

 

古川) 五戸病院は東北大学第一外科の関連病院で、東北大学第一外科に挨拶に行ったときに研修病院として紹介していただきました。どのような病院なのか全く知りませんでしたが、言われる通りに行きました。

 

 今は初期研修医はマッチングという制度を経て研修病院を決められます。自分が行きたい病院を慎重に吟味して希望を出し、定員を超えるときは選抜になるという制度ですが、私が卒業した当時はそんなことは全くなく、大体は大学の医局を通じて関連病院に派遣される形でした。

 

 行ってみて初めてどんな病院なのかわかったのですが、確かに地域の中核病院であり、町の人々が支えているおらが町の病院という感じで、看護師や医療技師は地元の人なので、患者で来る人のことをどこどこの誰と大体知っている状態でした。

 

 研修医は自分のみで、外科のみならず、他科の先生にも親切に色々教えていただきました。おかげで、プライマリーケアにはかなり強くなりました。農作業で足に傷をおった患者さんが処置をした後に破傷風を発症し、気管内挿管して人工呼吸器管理をし、回復した時や、病院の門のところで倒れていた患者さんが心筋梗塞で、心肺蘇生をして後に回復して退院した時等は患者さんを助けたと実感したものです。

 

 手術も比較的簡単なものを行わせてもらいましたが、自分が手術した患者さんが退院した時は大変達成感がありましたが、一方で、がんの患者さんは、進行がんが多かったので、手術でがんの部分を取り切れても後で再発して亡くなることが多く、やるせない思いをしたものです。

 

 この研修医の時の体験が後に自身をがんの研究にのめり込ませる要因になったと今では思います。

 

【 東北大病院へ 】

畠) 五戸総合病院から、昭和63年に東北大附属病院へ移られました。ドクターの世界の人事は一般人にはよくわからないですが、当時の古川ドクターの生殺与奪の権はどこが握って いたんですか?

 

古川) 生殺与奪とは何とも物騒に聞こえますが、私の場合は、当時の多くの医師がそうでしたが、大学の医局に所属しましたので、医局の人事で動くことになりました。会社に入るようなものだと思います。

 

 私が所属した東北大学第一外科は大きな医局で、教授以下、70人ぐらい医局の中にいたと思います。大学では指導医とペアになり、大学病院の患者さんを診療します。大学では研修医の時は診たことのない重篤な疾患の患者さんの診療や大掛かりな手術をおこなっていました。大学に行って1年目に立て続けに重症の患者さんを診ることになり、集中治療室に同時に3人の患者さんを受け持ったこともありました。

 

 一方で、大学は医学研究を行うところで、医局の中もいくつかの研究グループに分かれていました。私が所属したのは膵臓疾患研究グループでした。膵臓は他の臓器に比較してわからないことが多く、元々興味があった臓器でした。膵臓グループで研究をはじめる時に、当時のチーフに「病理学研究をやりなさい」と言われ、これも言われるままに病理学教室に行き、病理学の研究を始めました。

 

【 病理学とは? 】

畠) 病理学ってどのような研究分野なんですか?

 

古川) 病理学とは病気の成り立ちを解明する学問領域であり、主に病気になった組織を顕微鏡で観察し、どのような変化が起きているかを調べることで疾患の発生や進行のメカニズムを明らかにし、それにより疾患の予防、診断、治療法の開発を進めるものです。病理学教室で3年間研究を行いました。研究テーマは膵臓がんの発生過程を調べるものでした。指導者に恵まれたことから、研究結果を英語の論文にまとめ、著名な英文誌に発表し、医学博士号を取得できました。

 

【 カナダへの留学 】

畠) 平成5年に医学博士(東北大)、平成9年に病理専門医(日本病理学会)を取得されています。海外留学もされてますよね?

 

古川) 病理学研究で学位を取得したのち外科に戻り外科医として働いていましたが、大学医局の流れで、海外留学の機会を得ることができました。留学先はカナダのモントリオールにあるモントリオール総合病院研究所でした。

 

 モントリオールに行ったのは1993年でしたが、当時はトロントに並ぶカナダの中心都市で、大変活気がありました。フランス語圏であるケベック州に属していることからフランス系と英国系の人々が一緒に暮らしている街で、北米の中ではかなり独特の雰囲気を持っていました。緯度が高いので、冬は大変寒く、気温が-20˚Cを下回ることもしばしばでした。その代わり、春から夏は大変気候が良く、人々は開放的になり、毎週どこかでお祭りをやっている感じでした。

 

 当時は大リーグのエクスポスという球団があり、ちょうど大リーグに来たばかりの野茂投手をモントリオールの球場で見たこともありました。

 

 モントリオールで研究したのも病理学教室でした。行く時は外科の研究室に行く予定だったのですが、その研究室が研究資金が無くなったということで病理学教室に拾ってもらった形でした。2年間研究に没頭し、帰国することになった時に、外科から派遣された形でしたので外科に戻るのが筋でしたが、研究が面白くなってきたことから「もう少し研究したいから」ということで外科の教授に連絡して許可もらい、東北大学の病理学教室に入れてもらうことになりました。

 

 この「もう少し研究したいから」が現在まで続いていることになります。留学先でも膵臓がんの研究をおこなっていました。研修医の体験から、がんの患者さんが治るようになるには研究して新しい診断治療法を開発することが必要だという思いがありました。また、研究は自分のペースでできるので、人にあれこれ言われるのはあまり生に合わない方なのでその方が自分には良いと思ったこともあります。

 

【 東京女子医大へ 】

畠) 平成17年に東京女子医大へ特任助教授として赴任され、その後、同大で特任教授、教授と順調にキャリアを積まれましたが、女子医大での思い出をお聞かせください。

 

古川) 東京女子医科大学へ移ったのは国の大型予算で国際統合医科学インスティテュートという新たな研究組織が作られるということから応募したところ採用されたためでした。独立した主任研究者として十分な予算で好きなことができる立場でした。

 

 東京での研究生活は大変刺激的でした。最新鋭の研究機器がすぐに使え、また、新たに開発された技術をすぐ試すことができたためです。膵臓がんに関係する新たな遺伝子異常を発見したり、膵臓がん治療のための新たな治療標的を同定し、特許を得たりしました。

 

 東京女子医大というと女性ばかり?とよく訊かれますが、確かに学生は女性ばかりですが、医師や研究者には普通に男性がおります。しかし、女性医師は多く、女性の教授も何人かおりましたので、普通の大学とはやはり違った雰囲気はありました。

 

 東京にいた間の大事件は何と言っても東日本大震災でした。当日は普通に女子医大のラボにいたのですが、東京の揺れもかなり強いものがありました。女子医大は古い大学なので建物も古いものが結構あり、いろいろ壊れました。

 

 私は東京では単身赴任で、妻と子供は仙台におりましたので気が気でなく、電話しましたが当然ながらつながりません。行くしかないと思いましたが、新幹線は止まり、高速道路は閉鎖されていました。次の日の朝に東京でレンタカーを借り、国道4号線を北上していきました。道路もところどころ陥没したりしていて、かなり時間がかかりました。

 

 郡山を通過するころにちょうど原発が爆発し、夜になって宮城県に入ったら明かりが全くついておらず真っ暗で、ほとんど車が走っていない道を爆走し、仙台の自宅に着いたのは明け方の午前4時ごろでした。自宅と妻、子供は無事でしたので安心しましたがそれから10日ほど仙台で電気、ガス、水道が止まっている中、水を汲みに行ったりして過ごしました。東日本大震災で被害に遭われた方、近しい方を亡くされた同級生には心からお見舞い、お悔やみ申し上げます。

東北大学の古川研究室で

(後編へ続く。5月9日(月)に掲載予定です。)