会員の活躍を紹介するシリーズ、今回は【地産地消を推進し地元を元気にします】を理念に、宮城県内に17店舗を展開する ㈱おてんとさん を「0」から起業した社長の 髙橋榮吾 氏(昭54普卒)へのインタビューです。今回も、リモートでご協力いただきました。

 

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(第5回/前編)

 

地元を元気に おてんとさん

 産直市場 あじわいの朝

 社長 髙橋榮吾 氏(昭54普卒)

 

令和4年2月27日(日)

聞き手:仙台支部会 副会長 畠 敏郎

 

畠)榮吾ちゃん、お久しぶりです。今回も同級生へのインタビューと言うことで、かしこまらずにズケズケとお聞きしますので、よろしくお願いします。

 正直なところ、一高時代、教室では真面目、実直と言う印象で、後ろでじっと構えているような、言わば目立ったり、前にグイグイ出ていくような印象はなかったんですが、「0」から立ち上げて今では17店舗を有するまでになった髙橋社長の生き様を伺いたいと思います。

 髙橋社長は栗駒中学校の出身ですが、一関一高に進学したのは?

 

髙橋) 私の実家は栗原市岩ケ崎という田舎で、小学校のときはボーイスカウトに入り、毎年、富士吉田や摩周湖近辺、岩手山などにキャンプに行ってました。中学校では、軟式テニス部でのびのびとプレーしてました。でも、家にいるのが不自由に感じていて、関高へ進学している先輩は殆どが下宿でしたから、私も家を出て下宿したいと考え進学したんです。

 

 目論見通り、入学後は下宿生活となって家族に小言をいわれることがなくなり自由だと感じました。友人の家にもよく泊まりに行って、一高生でマージャントーナメントなんかもやりました。

 後輩が少し飲酒して、帰り道で警察に補導され停学となって、私も校長の訓戒というものを頂戴したなんてこともありました。

 

【 一高時代 】

畠)大変、希少価値のあるものをもらってたんですね。その分、高校生活を謳歌していたとい うことだと思いますが、どんなことが印象に残ってますか?

 

髙橋) 1年生の春、高総体の先発隊に応募して盛岡に行くことになったんですが、参加者は前日に盛岡入りすることになるので、親戚の家など宿泊先を確保できることが条件だったんですが、私は何も考えず、どうにかなると思って申し込みました。

 

 いざ盛岡へ行くと泊るあてもなく、結局、高総体の会場となる運動公園の植え込みで野宿することにしたんです。すると、盛岡市立高校の先発隊が一人でいる私に声をかけてくれて、親切にもテントに泊めてくれた。40年以上も前のことですが、この場をお借りしてお礼を言いたいです。

 

 また、当時は新幹線もなく終電に間に合わないのに どうしても見たいJAZZコンサートのために仙台まで行き、案の定、帰れなくなって、栗駒から親に車で迎えにきてもらったこともありました。何も考えていなくてホント楽天的だったですね。無謀な行動が時々ありました。

 盛岡市立高校の生徒のように岩手の人はみんな良い人だと信じて疑っていませんでしたから。

 

 それでも、1年のときは部活を何にしようか悩んだんですが、同級生の泉君、神崎君、俊郎君、柴田君と5人でボーイスカウト同好会を作り、真冬に釣山でキャンプもしました。テンの中で寝袋を二重にしても寒かった。七輪で餅を焼いて食べたり、冗談を言ってみんなを笑わせたり、楽しかったぁ。

 

 その後、サックスが吹きたくなって、吹奏楽研究部に入りました。2年、3年の時はサックスの練習に集中しました。ジャズに傾倒して吹研の中でJAZZビックバンドを結成して「関高スカイラークジャズオーケストラ」と命名しました。1978年当時、高校にビッグバンドがあるところはほとんどなかったと思います。私が卒業して3年くらいは活動が続いてました。その後10年くらい経ってから、スカパラが流行って高校のブラスバンドにビックバンドができるようになったんです。

 

 もし一高でビックバンドが継続していれば、高校ビッグバンドの名門校(?)になっていたかもしれないですね。映画の「スイングガールズ」はもう少し後の2004年ですからね。

 ベイシーにもよく通いましたが、あそこのマスターにもあこがれてました。

 

 高校1年生の時はボーイスカウト同好会を作り、3年生の時には吹奏楽研究部の中にジャズビックバンドを作った。どちらもそれまで関高にはなかったもの。今思えば、高校生の時から人と違うことをするというのが「自分らしさ」なのかもしれない。B型ですから。

 

【 大学生活 】

畠)大学に入ってからもジャズ漬け、サックス漬けだったとか?

 

髙橋) 部活一色の高校生活で勉強しなかったので、ベイシーのマスターの母校、あこがれの「早稲田ハイソサエティオーケストラ」には入れず、「中央大学スイングクリスタルオーケストラ」に入って、4年間をサックスに捧げることになりました。4年の時「斑尾ジャズフェスティバル」があり斑尾高原ホテルで、夜、演奏する機会があって、ディジー・ガレスビー(米国、トランぺト奏者)やカーメン・マクレエ(米国、女性ジャズ歌手・ピアニスト)など国際的な演奏家とも一緒に演奏できました。今考えると、貴重な思い出です。

六本木のライブハウスで

 

 社会人となってからもサックスを続けてました。ファンクバンドやケニー・G(米国、ジャズサックス奏者)のコピーをしてました。ケニー・Gライブは皆様におすすめですよ。おまけに、シンガーズ・アンリミテッド(米国、4人組ジャズコーラスグループ)「クリスマス」。もひとつおまけにナット・キング・コール(米国、歌手 ジャズピアニスト)。この3枚のCDがあれば決して寂しいことはありません。

 

畠)チョッと待って、榮吾ちゃん。ジャズに全く知識のない私には、誰が誰やら…

 

髙橋) 北京オリンピックが始まる前はロシアのワリエワが、あまりにもすごくてライバルから「ロシアの絶望」と呼ばれてましたけど、私にとってのワリエワは本田雅人(日本、サクソフォン奏者、作曲家)でした。テクニックがすごい。29歳の時にライブを見に行ったんですが、完全に脱帽。私自身、音楽へのあきらめがついたのはこの時でした。テクニックだけではなく、個性があった。これが本当に大切だと思う。

 

【 Uターン 】

畠)ジャズ熱、あつすぎるよ! 話題変えよ。平成元年にUターンして、お父様がガソリンスタンドや米穀集荷などを経営していらした 高五商店(旧 栗駒町)を手伝うようになったとのことですが「やっぱり、4代目を継がなくちゃ」という思いがあったんですか?

 

髙橋) 子供のころ、お婆ちゃんがいつも言っていた。ご先祖様から引き継いだ髙橋家を「あんだが継いで守るんだよ」と。

 

 音楽をあきらめて、東京に居る意味もないなと思い、会社も辞めて田舎に帰ったんです。ド田舎ですけど、実家の高五商店は、初代、曾祖父 五佐衛門が明治30年ごろから米穀集荷業で財を成し、社会的地位もありました。しかし、太平洋戦争が始まって1942年に食糧管理法ができて、兵糧である「米」は政府が全部管理することとなり集荷業は禁止、保管業務だけとなってしまったんです。食管法は1995年に廃止になるまで続きました。

 戦後は、映画館を2館、ガソリンスタンドなども経営していました。

 

 祖父、榮一は初代の栗駒町商工会長として地域振興のため商業、観光に尽力していたようです。栗駒町のだし祭りは祖父が会長のときに始まりました。栗駒の駒の湯に栗駒高原荘という温泉宿を開業しましたが、これがうまくいかなかったようで、損失が出ていました。

 

 苦しい経営状況を目の当たりにして、お婆ちゃんの「刷り込み」がよみがえったんです。それで、私が頑張らなくちゃ、初代、曾祖父五佐衛門を目標に、中興の祖となり家業を立て直そうと強く思うようになったんです。実家には、今でも初代の写真がありますが、眼光鋭く私を見守ってくれていると感じます。

 

畠)じゃ、どうして高五商店の業種拡大と言うことではなく、平成12年に新たに会社 … ㈱おて

 んとさん を起こしたんですか?

 

髙橋) 高五商店は個人事業主です。世の中はとっくに法人化の時代で、法人化すれば、役職が明確になり、対外的に代表取締役社長を名乗れる。高五商店からスピンアウト(※)して自分で出資し、親からの借入れは5年くらいで返済しました。

 

※ スピンアウト : 企業の一部門を切り離して独立させること。独立後の新会社と旧会社の資本関係はなくなる。資本関係を継続させる場合はスピンオフ。

 

畠)新会社では、何をしようとしたんですか?

 

髙橋) 新業態である農業資材専門の量販店を拡大するためです。独断ですべて決定するためには、自分がオーナー社長になることが必要でした。

田植機の試乗(盛岡で)

 

 1990年ごろから関東や福島では、農業資材の専門店、農家の店という新しい業態が出店し始めていました。これをやってみようと思い、農業資材専門の量販店【アックス若柳店】としてフランチャイズに加盟する形で1号店を開店しました。宮城県内ではすでに営業していたところがありましたから、2番手でした。3年契約でしたので、3年後に独立し【農家のお店てんとさん】として再スタートしました。

 

 この業界は特約店制度があって、農協専用の農薬肥料が今でも多数あるように、肥料や農薬のメーカーはシェアの大きい農協の顔色を窺っていて新規参入は困難でした。また、弊社の農業資材は直輸入品も多く、海外へ50回以上出張して、工場を一件一件探しました。

 今では韓国、中国、エストニアなど協力工場を45社程度まで開拓しました。誰も教えてくれるわけではないので、常に注意力を研ぎ澄まし探しに行くしかありません。

 因みに宮城で一番目に開店したライバル店は、今月、店を閉めて外商専門になるほど、厳しい業界です。

 

畠)「産直市場 あじわいの朝」という看板も掲げてますよね。

 

髙橋) 【産直市場 あじわいの朝】 をはじめたのは、震災の前年2010年でした。農産品の直 売所は市場から仕入れるのではなく、生産者を勧誘し受託販売するプラットホームですね。

 売上から手数料を頂く方式です。これを事業として維持するには、1店舗につき最低でも生産者が100名は必要です。

 多くの生産者を集められるのは、農協か道の駅などの公共的な組織です。民間では参入は難しい。幸いウチは、資材販売で多くのお客様と取引があったので、多くの生産者を確保することができました。

 

 地産地消が地元を救う。直売所のすばらしい機能について説明しましょう。例えば1000円の野菜を買う場合、県内産、他県産を比較します。消費・流通・生産の3段階で販売店から農家までの地域内取引を調べて行きます。他県産を買った場合 地域内所得は店の人件費分の110円しか発生しません。

 

 一方、地元の直売所で地元の野菜を買った場合、518円の地域内所得が発生するそうです。地産地消は地域内経済循環 (地域内乗数3) の効果で地域内で何度もお金が循環することで、より大きな所得を地域にもたらすのです。

 

 仙台から地方の直売所に観光を兼ねて出かける方が結構いますが、皆様、直売所で地元の商品を買って地元を守りましょう。いつでも簡単に、地元に貢献できて皆様の地元を守る購買になります。スイスでは自国を守るため、高くても地元のものを買う習慣があるそうです。あじわいの朝は、仙台の近くでは 富谷、利府、名取 にあります。

 

  (後編へ続く。3月9日(水)に掲載予定です。)