現在と過去 | 若葉 市之丞オフィシャルブログ「市味と~がらし」Powered by Ameba

現在と過去

なっっが!笑笑

初舞台を踏んだのは5歳の時でした。
丁度ウチのスタジオに来る1番幼いクラスくらいの小さい時だったかな。

それまでは、北海道に住んでてて「こひつじ幼稚園」という幼稚園に通う、あまり豊かではないお家の子だったと思う。
母子家庭だったし。父の顔は知りません。
母と兄と3人で札幌のアパートで暮らしてました。
狭い部屋に二段ベッドがあって、トイレは和式で玄関の向かいにあって、お風呂は狭くて、ガラスは何か星みたいな柄があって、何だかそんなくだらないことばかり覚えています。
 
夜はとても静かでオレンジ色の街灯に照らされた大粒の雪がとても記憶に残っています。

そんな普通の人が何故か5歳から人生は面白いことになります。
「大衆演劇」と呼ばれる一座の座長の子供となり、突然観客の前で演技をして踊りを踊ることになります。



母の再婚相手がその環境だったからです。
そしてフジテレビ、金曜エンターテイメントと言う番組で「頑張れ‼️チビ玉三兄弟」として全国区になりました。
※『頑張っとるがな‼️💢』と思ってたのは内緒ですw
それからは想像絶する酷い日々でした。
例えば、1日のスケジュールを書くと

7:30起床
8:00小学校へ
10:20早退
11:00メイク
12:00〜15:00本番
15:30お昼ご飯(5分で食べ終わり稽古)
16:00メイク
17:00〜20:00本番
20:30〜22:00次の日の芝居口立て稽古
22:30〜踊りの稽古
23:30口立て稽古の録音を聞き台詞をノートに書く
24:00台詞を覚える
25:30宿題をやろうとするが断念
26:30でも台詞量多くてちゃんと覚える
27:30楽屋で雑魚寝で就寝

そしてまた7:30から繰り返される。。。

世界の蜷川と呼ばれる蜷川幸雄先生の舞台にも立ちました。
「身毒丸」という舞台の主役さんの弟役でした。
そこの舞台が昼夜行われて、マネージャーが運転する車でさいたま芸術劇場から、当時の劇団が舞台をやっている川崎の劇場まで送還され、舞台に立たされられる。

「疲れたから嫌だ」と言おうものなら髪の毛引っ張られて引き摺り回されました。
今なら児童相談所に駆け込めばいいんじゃね?爆笑🤣

終わらない日々、次から次へと来る芝居や踊り。
普段自分のことを褒めない自分もこの時は「よく頑張った。」と励ましてあげたい。

そこでまた新しい演目をということで、振付されたのが「HIPHOP」
それがダンスとの初めての出会いでした。

「こんな楽しいものがあるのか!」

「こんなかっこいいものがあるのか!」

と凄くワクワクしたのを覚えています。

そこからは、、、
はい。笑笑
「芝居?知らんがな。」
「日舞?知らんがな。」
『俺にはダンスがある!』と
ダンスばっかり練習をしました。

「そんなもの必要無い」
「そんなのより芝居を練習しろ」と言われながら、それに従順に従ってきたのに、何故だか「
ダンス」のことだけは従わなかった。

そして、それをずっと見てくれていた、事務所の社長が「ダンス良いじゃん!それで行こう!」と言ってくれました。

そこから僕は何もかもから解放されて、今ダンスで生きています。

でも、笑えるのは...
大衆演劇時代、
散々舞台に立ってきました。
散々お客さんに満足してもらえるのか意識してきました。
散々指先まで綺麗に見せることを意識してきました。
散々その役に感情を込めて演じてきました。(僕はとても感情的になるので、悲しい役とかだとボロ泣きしてしまいます爆笑)
散々お客さんに魅せるにはを意識してきました。

それがきっと僕のダンスの根幹なのです。

大嫌いな役者という職業。
大嫌いな大衆演劇という職業。
大嫌いな演技というもの。
大嫌いな日本舞踊というもの。

でも、それがあるから今の『ダンスの先生』でいられるのです。

だから、きっと悪くない人生なのです。
だから、きっと母の再婚の決断も間違っていないのです。
いや、もっと悲しいことは多かったけど、書ききれないくらいあるけれど、
きっとそれも全部ひっくるめて、
ダンサー若葉市之丞が成り立っているのです。

僕のダンスの先生の理想は、自分が幼い時に「こんな先生がいてくれたら。゚(´つω・`。)゚。」です。
それを追い求めているのです。

みんなが笑顔になれるように。

みんながダンスを心から愛してくれますように。

なにが書きたいのかよくわからないけど、
また明日も踊ろう!爆笑🤣