大げさなタイトルをつけてしまいましたが、本質的なことはいつでもどこでも同じことです。

行きつくところはここではないかと思います。

私はよく「学習の手段化」という言葉を否定的な意味で使います。

目標や夢を持つことは大切ですが、目標や夢に偏った生き方をするとあまりよろしくない結果になります。

学習面で言うと、志望校や成績が目標となります。

志望校や目標とする成績がはっきりしていると、努力目標設定が明確になるというメリットがあります。

反面、志望校や成績だけのための学習努力となると、その目標をあきらめた時点で成績は急降下しますし、目の前の課題をクリアすることにしか努力を傾倒させなくなりがちです。

最近の傾向としては、推薦入学のウェイトが格段に増えています。

推薦入学のための基準は主に成績です。

学校の成績を得るための努力は、学力をつけるための努力とは少々異なる面があります。

上位層を除き、低年齢化するとその傾向は特に強くなります。

すると、「成績はとれているものの学力は低い」という結果を招き、このことは後の進路に大きく影響します。

決して夢や目標を否定するつもりはありません。

順番の問題であり、本質的努力はどこにあるのかという大前提をいかに見失わないかということです。

当たり前に聞こえるかもしれませんが、実はここを見失ってしまっている人は意外と多いです。

仕事でも同じではないでしょうか。

私自身は10年以上前に脱サラしているので詳しくありませんが、広い意味での目標管理制度いうのは、いまやほとんどの企業・団体で採用されていることでしょう。

しかし、この目標というものが過度に優先されると(占有されると)、構造がいびつになります。

企業や団体には必ず「理念」「ビジョン」というものがあります。

企業人として、仕事を、お金を稼ぐ手段ととらえるのか、生業として考えるのかによって、まず姿勢、取り組み方が変わると思います。

生業として考えられると、自分のプロとしてのありかたを問うことになります。

ところが、私を筆頭に人間は本来さぼる生き物です。したがって目標設定も必ず必要になります。

どちらかという話ではなく、双方必要なのです。

仕事というのは社会人にとっての「本分」です。

その本分において、プロフェッショナルであることは社会の一員として当たり前の在りようだと思います。

ものを買ったり、修理を依頼したり、制作を依頼したり・・・。

そうした社会生活の中で、依頼相手が信頼に足る人間かどうかは、その人の「プロフェッショナル度」によるところが大きいと思います。

学生にとっての本分は学業です。

まずは、思考を磨き、知識をつけ、知性を育むことという学習への取り組みが大切であり、ここを軽視して目標に傾倒すると、学習が手段化され、どこかで痛い目に遭うことになると思います。

いつもあることですが、最近でも「学校で勉強したことなんか社会にでても何の役にも立たない。」という意見を耳にしました。

それこそ、学習が手段化しているからであり、学習への取り組み方を正しく身につけられた人は、社会に出てからも正しく仕事へ取り組むことができ、ひいては正しい人生の取り組み方ができると信じています。