巷では、東京地検特捜部がカルロス・ゴーン氏らを被疑者・被告人として行っている捜査が話題になっています。

 私は、結果的にゴーン氏らが有罪になっても、将来の冤罪を防止するためには、特捜部の捜査とマスコミの報道姿勢は厳しく批判されなければならないと思っています。

 今に始まったことではありませんが、この事件でも、ゴーン氏らが逮捕されるや、毎日、怒濤のように「関係者によると」などの枕詞を付けての情報が報じられています。
 これらの報道を無批判に読めば、ゴーン氏らは日産を私物化した悪人ということにはなるでしょう。
 が、とにもかくにも情報元は検察であり、検察に不利な情報を好き好んでマスコミに漏らすはずがありません。鵜呑みにすることは危険です。

 それでもなお、ゴーン氏は悪い奴だと思う人が少なくないように見受けられるのは、この事件が庶民感情をくすぐる要素を持っているからだと思います。
 その一つは、ゴーン氏らが外国人であること。
 もう一つは、ゴーン氏らがカネ持ちであることです。

 外国人であることは、「外圧に屈するな」という特捜部への追い風をもたらすでしょう。
 カネ持ちであることは、経済的負担に苦しむ人々の義憤の対象に映るでしょう。

 穿った見方とも思いますが、特捜部はこうした要素があることを十分に利用しながら捜査を進めているような気がします。

 ですが、将来の公判では、今は検察が秘匿している「ゴーン氏らに有利な事情」が必ず明らかになります。それでも有罪になるかもしれませんし、無罪になるかもしれません。

 では、結果的に有罪になれば、今行われている捜査や報道は正当化されるでしょうか。

  「ゴーンは悪い奴だから、徹底的に懲らしめろ」と思う人は少なくないと思います。
 ですが、百歩譲ってゴーン氏が悪い奴で、結果的に実刑になったとしても、そのほかの人が捜査の対象になり、逮捕・勾留され、さらには検察などの捜査機関からの情報ばかりが垂れ流しのように報じられてもいいのでしょうか。

 言うまでもなく、捜査の対象になり、逮捕・勾留され、そして起訴された人の中には、少なくない無実の人がいました。
 このような人たちが無罪判決を勝ち取っても、それまでの間に失ったものを取り戻すことはできません。
 無実なのに何年、何十年も勾留され、あるいは服役して再審無罪になっても、時計を戻すことはできませんし、垂れ流し報道によって貼られた「犯罪者」というレッテルを形だけは剥がすことができても、追われた職場に戻ることも、離れていった人たちを呼び戻すことも容易にはかないません。
 無実の人がそのとおりに無罪になっても、実はマイナスしか残らないのです。

 そして、そのマイナスのほぼ全ては、「否認しているから逮捕・勾留する」捜査手法と、逮捕・勾留されると「犯罪者扱い」する報道によって生まれているのです。
 無罪判決が出ても、検察は内向きの反省(しかも、その内容は「なぜ有罪の立証に失敗したのか」というものです)しかしませんし、マスコミもせいぜい「当時の報道にも問題があった」と書いてすませるのが関の山です。

 ゴーン氏の事件を見ていると、いくら無罪判決が出ても、何も変わらない捜査手法と報道姿勢に愕然とします。

 「ゴーンは悪い奴だからこれでいいんだ」ではないのです。
 仮にゴーン氏が悪い奴でも、こういう時こそ、こんな捜査手法や報道姿勢を改めなければ、将来、無実の人が刑事手続に乗せられてしまったとき、捜査機関やマスコミによる「無罪判決前の有罪判決」が出てしまうのです。

 とくにゴーン氏の件では、捜査手法への批判が専ら外国によるものという様相を呈していますが、それをいいことに、日本のマスコミは検察批判を放棄しているように見えます。
 それどころか、外国が日本の制度を批判していると報じることによって、「外圧に負けるな」という世論形成に一役買っているのではと勘ぐりたくなります。
 
 刑事系の学問領域では、「犯罪の一般予防」という言葉を使うことがあります。
 例えば、凶悪犯罪に対して死刑で臨むとき、「死刑には凶悪犯罪の一般予防効果がある」と言ったりします。凶悪犯罪を犯すと死刑になるぞと市民に広く知らせることによって、これを恐れて犯罪を踏みとどまるだろうという理屈です。

 同じことは冤罪防止にも言えると思います。
 「冤罪の一般予防」です。
 冤罪を生まないためには、目的や根拠が不確かな身柄拘束や、それに基づいて自白獲得を迫る捜査を改め(させ)る。また、捜査機関は常に暴走する危険があり、大きな過ちを犯してもまっとうな反省をしないことを踏まえて、マスコミは常に捜査機関を監視する。
 「冤罪の一般予防」を図るためには、ゴーン氏の件での捜査手法を丸ごと肯定しない、マスコミは特捜部万歳の報道ばかりやってはならない。
 結果的に悪人とわかろうとも、その悪人であることは有罪判決が出て初めてわかることであって、判決の前に有罪と断じることは、誰にもできないのです。