最高裁判所大法廷は、10月17日、岡口基一裁判官に対する懲戒申立て事件につき、同裁判官を戒告すると決定しました。

 この決定については、今後も少なくない意見・見解が表明されると思いますが、私は何よりも、「懲戒の原因となる事実」を読んで戦慄しました。

 「懲戒の原因となる事実」には、次のとおりに書かれています。なお、この決定は公開されています。

 http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=88055


 被申立人は、平成30年5月17日頃、本件アカウントにおいて、東京高等裁判所で控訴審判決がされて確定した自己の担当外の事件である犬の返還請求等に関する民事訴訟についての報道記事を閲覧することができるウェブサイトにアクセスすることができるようにするとともに、別紙ツイート目録2記載の文言を記載した投稿(以下「本件ツイート」という。)をして、上記訴訟を提起して犬の返還請求が認められた当事者の感情を傷つけた。
 本件ツイートは、本件アカウントにおける投稿が裁判官である被申立人によるものであることが不特定多数の者に知られている状況の下で行われたものであった。

 この事実は、刑事裁判で言えば起訴状に書く「公訴事実」や判決書に書く「罪となるべき事実」みたいなもので、一口で言えば「こういうことをやったことが戒告に値する」という根拠にあたるものです。
 この事実を分解すると
①行為の主体 被申立人(裁判官)
②行為 本件ツイートをしたこと
③行為の条件(ちょっとよくない表現ですが) 投稿が裁判官によるものであることが不特定多数の者に知られている状況の下にあったこと
④行為の結果 当事者の感情を傷つけた
となります。
 いわば、例えば傷害罪で①被告人が②被害者の顔を拳で殴り④被害者に全治3日の顔面打撲の怪我を負わせたといったものと同じです。

 恐ろしいのは④です。
 当事者の「感情を傷つけた」という結果をもたらしたことが、戒告というペナルティを科す根拠とされていることです。
 
 まず強調しておきますが、私は、当事者の方が感情を傷つけられたことは否定しませんし、感情を傷つけられたことを責めるつもりもなければ、批判するつもりも一切ありません。これを大前提として述べます。
 
 さて、「感情を傷つけた」とは、どういう結果なのでしょうか。
 例えば傷害罪では、全治3日の顔面打撲といった「傷害」が結果です。刑事裁判では、被告人・弁護人が「傷害を負わせていない」と争うことがありますが、その場合、立証責任を負う検察官は、例えば医師の診断書や被害者の顔の写真といった証拠を出して、傷害があったことを証明しようとします。これに対して弁護人は、医師の証人尋問を求めたり(実際は検察官が証人尋問を請求するのが殆どですが)、写真が正確に撮影されているかどうかを問うため、撮影した警察官の証人尋問を求めることもあるでしょう。
 つまり、傷害があったかどうかについては、被害者がどう言うかを除いても、そのほかの客観的な証拠を調べることで判断できる可能性があります。

 では、「感情を傷つけた」という結果に対して、「そんなことは起きていない」と争いたいとき、どうすればいいのでしょうか。
 「感情が傷つけられた」ことの証拠は、ひとえに傷ついた人の供述しかありません。これは完全に人の内心だけが問題になるからです。
 これを意地悪く見れば、「私は感情を傷つけられた」とさえ言えば、「そうではないだろう」という反論が許されないことになりかねません。

 そして、私たち一人一人の誰もが、他の人たちとは違う感情を持っていることが強く意識されている今日では、例えば検事が「俺はそんなことでは感情は傷つかない」と言ったところで「検事と私は違います。あなたに私の気持ちがわかるのですか?」と反論されたら、なす術がありません。
 一人一人の感情が尊重されなければならない世の中であればあるほど、ある人が「私は感情を傷つけられた」と訴え出ることもまた、できるだけ尊重されなければならないのです。
 もちろん、感情を傷つけられたかどうかは、その原因となった「行為」によっても判断できなくはありませんが、まさに十人十色の問題であることを踏まえると、万が一にも「いや、この程度のことでは感情は傷つかないでしょう」と言おうものなら、その人はますます感情を傷つけられてしまいます。
  
 では、今回の件はそうではありませんが、例えば裁判官に嫌がらせをしようと企てた人が、「私はあの裁判官の言動によって感情を傷つけられた」という嘘を訴え出たら、どうなるでしょうか。
 訴えられた裁判官は、どうやって反論すればいいのでしょうか。
 
 「感情を傷つけた」という結果は、そうだと言っている人の内心だけの問題です。
 悪意のある嘘を見破ることが非常に難しいのです。
 このような結果によってペナルティを科されるとなったら、裁判官は平素どのように用心すればいいのでしょうか。

 今回は裁判官の職務上の行為が問われたのではなく、私生活上での行為を問われていますが、では、裁判官が職務上、当事者の感情を傷つけることはあるでしょうか。
 例えば、法廷で民事裁判の当事者本人尋問をやっているとき、裁判官が原告本人に「あなたは、昨日のできごとも覚えていないのですか?」と質問したら、どうなるでしょうか。
 その原告は、真実を証言していようがいまいが、気分を害するでしょう。これこそが「感情が傷つけられた」ことになります。

 話が脱線しますが、検事は取調で被疑者や参考人の嘘を見破りたいがため、違法とまでは言えないにせよ、「追及」という名の下に厳しい質問を浴びせるのが仕事です。
 検事から「それ、本当なの?」と言われたら、その口調がどんなに穏やかであっても、言われた方は「感情が傷つけられ」ます。
 裁判官も似たようなものでしょう。

 このように、裁判官は、むしろ肝心要の職務を行っているときこそ、当事者の感情を傷つける可能性が大きいのです。
 「感情を傷つけた」からペナルティを科されるとなったら、むしろ裁判官はまともに仕事ができなくなるのではないでしょうか。

 もちろん、常識的に考えれば、裁判官が職務としてやっている行為に対してペナルティが科されること自体がおかしいという考慮がなされるでしょう。
 ですが、最高裁判所が明記した「懲戒の原因となる事実」は、私生活上の行為において、当事者の感情を傷つけたことが戒告の対象になるとされているのです。
 裁判官が職務上の行為で当事者の感情を傷つけるのは不問にするが、私生活上の行為で当事者の感情を傷つける行為は戒告の対象とする、というのは、バランスがとれているのでしょうか。

 ゲスの勘ぐりですが、気に入らない裁判官を痛めつけたいと考えている人たちがいたとして、裁判官の職務上の行為に難癖をつけるのは「裁判官の独立」の建前上ややこしいので、むしろ私生活上の行為を狙った、という推理小説でも書けそうな気がしてしまいます。

 戒告は刑罰とは違いますが、間違いなくペナルティです。
 人が国家権力からペナルティを受けるとき、その根拠とされるのは法ですが、とくにペナルティを科す法(ざっくり言えば刑事実体法がその代表です)は、「どこまでは大丈夫で、どこからがダメなのか」を社会に向けてはっきり知らしめることが必要です。
 何がなんだかよくわからない法を定められると、人は何をやったら咎められるのかがわからないので、ペナルティを科されたくなければ、極力何もしないように努めるでしょう。
 
 最高裁が示した「感情を傷つけた」という言葉に、「ここまでは大丈夫で、ここからはダメ」という基準を見出すことはできるのでしょうか。
 繰り返しますが、いろいろな人のいろいろな感情を尊重しなければならない今日だからこそ、裁判官のどの行為が当事者の感情を傷つけるかは予想できません。「私はこの程度では傷つかない」という基準が他の人には通用しないのです。

 こんな得体の知れない基準を突きつけられて、裁判官はこれからどのような私生活を送ればいいのでしょうか。

 百歩譲って、今回の判断が例えば地方裁判所によるものだったとしたら、戒告された裁判官は例えば高等裁判所に不服を申し立てて、高裁にもう少し明確な基準を作ってもらう手もあったでしょうが、なにしろいきなり最高裁です。どうしようもありません。
 
 当然のことですが、裁判官も人間です。人間には職務のほかにやるべきこと、やりたいことがたくさんあります。
 私生活上の行為に対して、「感情を傷つけられた」と言われたが最後の禁止規範を持ち出されてしまった裁判官は、これからどのような私生活を送ればいいのでしょうか。
 万が一にも、「裁判官はとにもかくにも職務に邁進しろ、裁判所の外では息を潜めて暮らせ」というのが最高裁のメッセージだとしたら、それは裁判官の人間性・人間としての個性を奪うものです。
 そんなことになるなら、それこそAIが裁判をやればいい、ということになりかねません。
 
 本当に、本当に恐ろしい決定だと思います。