こんにちは!
今朝は、久しぶりに特攻隊のお兄ちゃんたちが夢に出てきました。
「Miu!お前は間違ってない、大丈夫だ。
この国がどうもおかしくなっているから見に来たよ。
久しぶりだろ?」
お兄ちゃんたちはとても明るく元気です。
「Miuが今思っていることはよーくわかってる。
だけど、今はそれをバネにいいもの書けよ。
これだ!と思うことがあればまっしぐらに行けよ。
今悔しい思いをしてることもみんな力にするんだ」
優しい声が飛び交い、なぜかその励ましの方が
むしろ悲しく、夢の中で泣きました。
屈折した闇が光を覆うときも、光は止むことなく輝き続け
そうすれば、闇夜は光に負けてしまうから。
大事なことは
輝きを失わないでいることだ。
それは、自分だけはこうだと信じている世界と自信のように
自分にしか最先端は走れないと思う、自分を信じる力により
ジョブズの夜明け感覚がこの世界に光を灯したように。
もし彼がいなかったら、代わりの人がいたかといえば
いなかったと言える、そんな存在であり続けろ
お兄ちゃんたちは、もっと才能があっただろうに
この国の「正しい」と国民の「希望」により
望んでその死を迎えた気丈な人たちばかりです。
本物の特攻隊の前田さんはこう言います。
この特攻隊の試験に合格するなら
「とびぬけた知力、体力、胆力、そして
死を持って飛び込む勇気をもっている人間しか
合格しない超難関だった」
八八先生が英霊たちに筆をうごかされて描いた絵です。
そのとき、八八先生は全く何も戦闘機のことは知らずに
調べて描かなきゃなと思っていたときでした。
このゼロ戦は、本当は八八先生のイメージでは
緑色だったのです。
でも、英霊たちはいいました
これは、シルバーなんだよ
と
銀色のツバサが、太陽の光を浴びた時
あめ色にかがやき
それは美しかったといいます。
この空の世界を知る者にしか
わからない世界
英霊たちは書き上げて、疲労困憊した八八先生に言いました。
「ありがとうな。俺たち神風だからさ
神風起こしてやるからな」
100人近くの特攻隊の霊が
彼を囲み
その絵が仕上がるのを待っていました。
もちろん、筆を動かしたのは、彼らです。
戦闘機の絵をみながら、
もしやと思いました。
あのころ写真を撮ることが容易でなかった軍の中では
飛行機の絵を書いていたのではと思いました。
その戦闘機は、終戦と同時に、ゼロ戦も錦江湾に捨てられます。
名機がたくさん埋められたり、その姿は日本軍の手で埋葬、水葬されました。
飛行機の絵を書く少年兵の霊に憑りつかれた人がいました。
その子は、死ぬのが嫌なのに
くににころされた
と書いてきました。
もちろん憑りつかれた人がメッセージを送ってくるのです。
そのあと、素敵な絵がMiuに届きました。
Miuはその絵をとても大切にし、保管しています。
霊の話をこうして書くのは
何かメッセージがあるから来るのかもしれないと思って
今こうして書いています。
戦争前と似たような、国民の疲労感と見えない出口
何が正しいのか見えない中
日本の製品を買わない欧米の運動が始まります。
そして、戦いが好きな民族は
敵を見つけて戦うことを望みます。
その戦いの末に欲しかったものはなに?
日本の「世界一」称号?
日本の「プライド」「経済的豊かさ」
でしょうか。
日本に軍隊を持たせない理由が見えますね。
刀を持たせれば振り回す
軍団になれば、画一的な策しか論ぜず
反対や新しい意見を大きな流れの中に飲み込み、消す
一体勝つことで何を得られるのかが
誰も明確に答えらえない。
そして
負けることを口にしたくないし
口にしたら負けだと思ってしまう。
冷静になれば、何のために戦をして
その戦で得られるものを計算すべきときに
ただ、勝つことしか考えない
日米修好通商条約を交わした
この下田の了仙寺
ここに来て初めて感じたのは
なぜここを開港したのか
伊豆半島の先端にある港、漁村に
アメリカ総領事館まで作ったのか
お寺の桜が教えてくれるかなと思ったけれど
この桜はこんなに大きく伸びているので
樹齢100年以上かと思ったら
まだ60年だそうです。
この絵はよく見ますよね。
石板はお寺に保管され、原本はアメリカの海軍兵学校に
保管されています。
その複製です。
この世に原本と、複製があるというのは
どういう技術で絵画を複製したのかと興味がありました。
日本はその当時版画の技術はありましたが
この絵をごらんください。
2mくらいの大きな絵です。
お寺の本堂は、1800年代から変わらないそうで
170年近く経つわけですが
津波にも負けずに残って、今も美しいままでした。
この絵の中に違うもの、それは
鐘が無いですね。
もしかすると、太平洋戦争中に
鐘を軍に渡したのかもしれませんね。
そういう時代の変遷を考えると、時代の常識非常識が見えます。
その鐘の後に、この桜を植えたのでしょう。
初めて下田条約を結び
アメリカ人たちが自由に歩くことができ
この界隈の人たちも、新しい文化に驚きながら
それなりに親しくなっていきました。
実はこのお寺、裏に横穴がありました。
横穴遺跡ですね。
この当時は、武器や馬具ではなく
装飾品が残っていました
伊豆は石が有名で、江戸城の石垣も伊豆の石が使われたといいます。
さらに
ワシントンのタワーには、この下田の石をハリスが持ち帰り
タワーの一部に使われています。
日米通商航海条約の最初の頃の
新しい貿易の形が見えますね。
石をいくらで買ったのかわかりませんが
当時の絵と写真の技術は
西洋の最先端の技術が下田に残り
たくさんの絵画が西洋風の繊細なタッチで描かれるようになり
英和辞典も作られたのです。
その辞典を作ったのも
下田のアメリカ使節に付き添った16,7歳の少年たちでした。
どうして下田を開港したか
その理由は
江戸に遠く、港から切り立った山が見え、
もし江戸を攻めようとしても
天城山麓のような山を越えて陸地を移動しなければならず
最初から侵略させる気を失せるため、といわれます。
その後、プチャーチンが訪れロシアへも開港しました。
5か国がこの下田に集まるようになり
それまでの日本には全くなかった文化に溢れます。