嘉吉の乱 旧赤松満祐邸を訪れてみました。 | えーろうのブログ

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また最近、日本初の健康と美を学べる〝ビューティー&ウェルネス専門職大学〟の客員教授を拝命しました。よろしくお願い申し上げます。

えーろうです。

今回、嘉吉の乱が勃発した二条西洞院の旧赤松満祐邸を散策して来ました。

ここは源氏物語でも出てくる平安時代には荒れ果てた二条院候補地で、その後荒地に室町時代 赤松邸を造築したと考えられます。

嘉吉の乱についてはこちら。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/嘉吉の乱

最近は歴史マガジンにも〝劇画調で〟取り上げられ益々関心が高まっているのかもしれません。

正式には赤松兵部少輔左京大夫満祐という官職で幕府の要職を担っていたそうです。しかし二条西洞院にはその痕跡はほとんど無く ただ古そうな弁財天のみが祀られていました。

また赤松兵部少輔左京大夫政則(満祐の孫)の邸宅跡が今出川新町の「弁財天町」付近にあるので、何らか弁財天を祀る事と関係があるのかもしれません。

ところで私の実家は香川県旧大川郡にある三宝寺の出身で、本当かどうか分かりませんが、お寺の縁起書には以下のような記載があります。

当時開基者村上天皇二十八代之末孫 播磨守兵部少輔左京大夫正清入道赤松庵と号し申し候、永禄年中御当地香川郡岩部に移住仕り候、改名し五良左衛門尉と申し候 其の後阿州板野郡瀬部村移住仕り候 赤松庵円心と改名 天台宗にまかりあり候 天正元年御当国大内郡入野山村北谷に罷り越し本願寺顕如上人に帰依致し一向宗に相成り一宇建立仕り了禅法師と名乗り居り申し候

開祖は兵部少輔左京大夫とあり、満祐の流れを汲んでいるのかその子孫なのかよく分かりません。

父が戦後すぐに祖父である赤松栄蔵氏からの言い伝えとして(私からは曽祖父)昔先祖は命からがら播磨から殺されかけて逃げてきたとの伝承があるようで、歴史的には赤松兵部少輔左京大夫義村という守護大名が播磨室津で殺された事になっていて、よく分かりませんが関係があるのかもしれません。

歴史ロマンは面白いですね、勝てば官軍負ければ賊軍で 負けた方の歴史や痕跡は闇に葬られたりウヤムヤになってしまいがちです。

亡父の遺言で、何とかその辺りを探求して少しでも分かればいいのですが、今のところなかなか😵であります💦💦💦

今回はまさにその歴史舞台となった場所、大きな転機となった激動の「その時歴史は動いた」場所を訪れてみました。

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