ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
282. ピョンジャホラン丙子胡乱
 
 
ドラマ『ファジョン華政』繋がりで記事を書いております。
2023年のドラマ『ヨニン恋人』でもこの戦争を背景に「大河ロマン」として描かれました。
 
ドラマでインスピレーションを頂き、その事柄を深く掘り下げる形式で、ワンポイントコラムの執筆が大方成り立って居ます。
 

 

とは言え、1番しんどい作業でありながらコスパが良く無いので(笑)最近ではこのカテゴリーを書く機会がめっきり減って居ます。
そのワンポイントコラムもようやく300回を数えます。
このカテゴリーの執筆はいつも悪戦苦闘ですが、今回ほど筆が進まない回は有りません。
それは、今回述べる『丙子胡乱ピョンジャホラン』の結末が、まさに我が国最大の『恥辱の歴史事実』だからです。

 

 

ちなみにウリハッキョ(朝鮮学校)や共和国では『丙子胡乱ピョンジャホラン』の顛末(てんまつ)をキチンと教えません。
それは歴史教育が「民族の誇りを教える」と言う使命を帯びて居る為だと断言出来ます。
私もこの様な屈辱を受けた事を知ったのは高校を卒業して、とある雑誌を読んでからでした。
最初はどんなに驚いた事か…
にわかには信じ難い事実でした。

 

 

しかし、歴史は栄光も恥辱も全て含んで『歴史』です。
歴史から現在の教訓を得る為にも「屈辱」は屈辱で教えるべきだと思います。
そして過不足無く公平に論じるべきだと思います。
 
前述の通り、1627年後金による第一次侵略『チョンミョホラン丁卯胡乱』は朝鮮王朝と後金が兄弟の盟約を交わす『和議』で収束しました。
しかしその後の後金の度重なる横暴、朝鮮王朝内の「反金」気運によって両国の関係は悪化する一方でした。
当時、後金は万里の長城を越えて北京付近まで攻撃しながら、背後に当たる朝鮮王朝への圧迫を強めました。

 

 

丁卯年の和約の10年後の1636年2月、後金は国号を「清」と改め、ホンタイジ(太宗)の皇帝即位を通告し、朝鮮王朝もそれに従う事を要求しました。
仁祖はそれを拒否、全国に「宣戰の教書」を布告して清と徹底的に争う姿勢を明らかにしました。
 
しかし、猜疑心(さいぎしん)に駆られた仁祖はこの10余年の歳月、再び戦争が起こる事が自明だったにも関わらず、政権の維持のみに汲々とし、これと言った戦争防備もせずに過ごしました。

 

 

遂に1636年12月8日、清軍は10万人の大軍で全面的に攻撃を開始、『丙子ビョンジャ胡乱ホラン』が勃発します。
清の太宗は自ら戦争に出征、9日に鴨緑江を渡河、途中闘いを避けすぐさまソウルに向け進撃し、10日余りでソウルに迫ると言う電光石火の如くの勢いで迫りました。

 

 

一方、朝鮮王朝ではまず王族を江華島に避難させ、仁祖と世子も江華島に向かいましたが、清軍に途中の川を遮断されて江華島への道が途絶え、仕方無く「南漢山城ナムハン(ナマン)サンソン」に入城しました。

 

<南漢山城>

 

現在ユネスコ世界遺産に登録されている南韓山城は平地に有る首都ソウルの防備の為の要塞のひとつですが、戦争が近かったにも関わらず、無為無策だった仁祖の愚策により荒れ果てたままでした。
この時山城に構えた兵は1万3000人、城内に有る軍糧米は米1万4300石、醬220壺で、たった50日余り耐えられる量に過ぎませんでした。

 

 

一方、清軍の先鋒部隊は12月16日にすでに南漢山城に達し、何の抵抗を受けずにソウルにも入城しましたが、清の太宗は翌年1月1日に南漢山城下に20万の兵で布陣し城を包囲しました。
 
が、しかしその後これといった大きな戦いもなく40日余りが過ぎました。
山城内の惨状は言うまでも無く、物資の不足によりあらゆる問題が噴き出ました。
南漢山城に向けた各道の官軍は目的地に至る前に崩れ、援軍の来たらない南漢山城は孤立無援の絶望的な状態に陥りました。
ちなみにこの時、京畿・全羅・慶尚などで義兵が起こり、鄭弘溟が多くの義兵を率いて公州にまで至りましたが、すでに和議がなされた後でした。

 

<映画「天命の城」>

 

南漢山城に向けた救援が全て崩壊し頼る所が無くなると、次第に講和論が起こり始め喧々諤諤(けんけんがくがく)の論争に発展しました。
主和派と主戦派、果てしの無い論争を重ね、大勢は講和を支持する方に傾きます。
この時の城内の様子は以前、歴史本編でも紹介しましたが、イ・ビョンホン主演映画『天命の城』(原題『南漢山城』)に克明に描かれて居るので、是非一度ご視聴を。

 

 

ドラマ『ファジョン華政』でも『ピョンジャホラン丙子胡乱』は正面から描かれました。

しかし、ドラマでは戦争の顛末を朝鮮王朝内部の大臣間の葛藤をメインに描いたせいか、やや本質があやふやに感じる印象を受けました。

そして、予算の問題など有ったとは思いますが、冬の山城で戦ったイメージが湧かず、ただ王宮若しくは地方都市の城で戦っている雰囲気でした。

以前に映画『天命の城』で臨場感有る映像を観てしまって居たので、一言でチープに感じてしまったキライが有ります。

 

とは言え『サルフ戦闘』から『リグァルの乱』そしてこの『ピョンジャホラン丙子胡乱』まで、戦争を全面的に描くドラマの姿勢(と予算の多さ)には感銘を受けたと言えます。

 

 

仁祖は1637年1月3日、チェ・ミョンギルの文を採択し、清軍の陣営に送って講和を要請しましたが、清の太宗の答書は思ったより厳しい物で、論争が再度巻き起こりましたが、その時城内に江華島が陥落したという報告が入ります。
 
江華島守備の責任を担当したキム・ギョンジンは無能な人物で、仁祖の偏向的な抜擢で重責の任に就きましたが、大臣や大君の言葉も無視して勝手に仕事を処理し、天然の要塞で有る江華島を易々と敵に明け渡す愚策を犯したのでした。
江華島の城が陥落すると清軍は入城し、王子・元孫ら王族を捕獲、島内で殺戮と略奪を行い、全部燃やし尽くしました。

 

 

一方、南漢山城では敵の包囲の中で未だ「和・戦の両論」が尽きませんでしたが、江華島の陥落事実を確認した仁祖はついに出城を決めざるを得ませんでした。
 
両国は次のような条約に合意しました。
 
❶まず、朝鮮は清国に対して臣下の礼を行なう事。
❷第2に明国からもらった冊印を清国に捧げ、明との交好を断ち切り、朝鮮が使う明の年号を捨てる事。
❸第3に朝鮮国王の長子と次子、そして大臣の息子を人質として清に送る事。
❹第4に清が明を征伐する時、朝鮮は期日を守り援軍を派遣する事。
❺他にも朝鮮が新旧城壁を補修したり築いたりしない事や捕虜を差し出す事、歳幣(貢納品)を毎年送る事など、細かく決められました。

 

<ドラマ 宮中残酷史〜花の戦争より>

 

いよいよ1月30日、仁祖は世子と共に、官民の慟哭の音が山城をこだまする中、南漢山城を出城し、漢江東側の三田渡で臣下の盟約の礼を行いました。
この時の盟約が所謂(いわゆる)『サムジョンド三田都の盟約』とも『サムジョンドの屈辱』とも言われる儀式です。
仁祖は壇上に座る清国の太宗に『三跪九叩頭の礼』(さんききゅうこうとうの礼:삼궤구고두례)すなわち3回跪(ひざまず)いて9回頭を地べたに付ける礼を行いました。

 

 

この模様は韓国メディアで再三映像化されて居ます。
センセーショナルに描かれる事が多いですが、余りの屈辱の為か実際の正史に記録が無く、正式な模様は伝わりません。
上に挙げた映画『天命の城』、2013年のドラマ『宮中残酷史〜花の戦争』、ドラマ『チュノ推奴』そして今回の『ファジョン華政』でも史実とは異なり少しオーバーに描かれました。
その中で『天命の城』が1番考証に忠実だと言われて居ます。

 

<ドラマファジョン華政より>

 

しかし実際、この『サムジョンドの屈辱』での『三跪九叩頭の礼』は敗北した国王が行う儀式と言うよりは、清国の臣下が通常行う儀式に過ぎず、その後清国の太宗は仁祖を多いに歓待しました。
 
そしてその後弁髪を要求する事も無く、朝鮮王朝の独自性を許容しました。
 

 

とは言えその儀式自体より、そもそも野蛮国と蔑んで居た女真族の王を『皇帝』と崇め『上国』として臣下の礼を取る自体が既に屈辱だったと言えます。
 
『三田渡の屈辱』をきっかけに、朝鮮王朝は清と朝貢冊封関係を結ぶことになり、朝貢して清皇帝の冊封を受けなければならなくなりました。
明との関係も断絶され、外交権を制限されました。

 

<映画 天命の城より>

 

その他にも長男のソヒョン昭顯世子と次男ポンリム鳳林大君が人質となり、主戦派の大臣も連行されました。
清はまた、仁祖が降伏の礼を行なった三田渡に清太宗の功徳を讃え、清軍の戦勝を記念するための記念碑の建立を朝鮮に強要しました。
清はその後、朝鮮王朝内の民衆の反発を恐れ、さっさと撤兵しました。

 

 

この戦争は1ヶ月余りの短い戦争期間でしたが、その被害は壬辰倭乱に次ぐもので、朝鮮王朝としてはかつて遭ったことのない一大屈辱でした。
朝鮮王朝のみならず我が国の歴史で、戦争での完全なる敗北は後にも先にもこの時が唯一だったと言えます。
これで朝鮮は明との関係を完全に断ち切られ、清朝から「朝鮮王国王」に冊封される事で清国の「属国」としての君臣関係が1895年の日清戦争で清が日本に敗れるまで続いたと言うワケです。

 

 

両国間には深刻な問題も持ち上がりましたが、清軍に強制拉致された老若男女、50万人~60万人の拉致者の問題でした。
主に良家の婦女子が拉致されたので、帰還や離婚の問題など社会問題が多いに噴き上がりました。
この件も上記のドラマ『ファジョン華政』を始め様々なメディアに描かれて居ます。

 

<ドラマファジョンのソヒョン昭顯世子>

 

10年の人質生活をしたソヒョン昭顯世子ポンリム鳳林大君は1645年(仁祖23年)に帰国しましたが、清国の先進文明を取り入れようとするソヒョン昭顯世子と父王インジョ仁祖の対立が露わとなり、ソヒョン昭顯世子は2ヶ月ぶりに不明の死を遂げます。
仁祖の後を継いだポンリム鳳林大君(孝宗)は王位に就いた後、人質生活の屈辱を報復する目的で軍備を拡張するなど、『北伐』の空虚な計画を立てますが、彼も実践に移せないまま在位10年ぶりにこの世を去る事になります。

 

<ドラマファジョンのポンリム大君(孝宗)>

 

この様な事柄から朝鮮王朝では『面従腹背』つまり清国にウワベだけ服従し奥底では自国が明国を継いだ『小中華』で有ると言う「名分論」が盛んになり、清国の先進文明を拒否し近代化が大きく阻害されました。
朝鮮王朝後期になるにつれ『朱子学』がいよいよ盛んになり、朝鮮王朝社会をがんじがらめに縛る結果になりました。
 
 
この戦争による精神・物質両面での我が国の損失はいかほどか知れません。
『名』を捨て『実』利を取るべきとの『実学』が盛んになって行くのもその脈絡に沿った物だと言えます。
 

結論ですが、上記の歴史は国際情勢に眼と耳を傾けず疎(うと)いままだと、どの様に酷い眼に会うかと言う貴重な教訓を現代の我々に投げ掛けてくれて居ると言えます。

 

他にも述べたい事は多いですが、以上にて『ピョンジャホラン丙子胡乱』の幕を閉じたいと思います。

 

 

 

丙子胡乱ドラマの傑作をご参考に

 

 

 

<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키
우리역사넷

 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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<ドラマ宮中残酷史〜花の戦争>