第11章 自分史
私の自分史23卒業と進路
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私は中学校卒業の文集に寄せた作文に「歴史学者」になる将来の夢を書きました。
歴史の道に進みたかったのです。
高校の時には歴史か国語の高校の先生になる事も考えました。
高校2年生の頃、朝鮮総連のイルクン(専従)になる事を考えましたが、それは朝鮮大学とセットでした。
歴史をメインに据えて居ましたが、文章を書くのも好きで、小説家になる夢も有りました。
小学生の頃から作文で良く政治的な童話を書き、朝鮮新報にも掲載された事が有り、学内でも他の学年に良く読まれ、プチ有名になっていたのです。
高校の時、ウリマルの小説を書き、懸賞応募『コッソンイ꽃송이』にも入賞しましたし、チョチョン朝青のイルクンをしながら「文学芸術家同盟(文芸同ムンイェドン)」にも加盟して「児童文学(童話)」も1篇発表しました。
題名は『カルメギアバイ(カモメのおじさん)の地図』と言う小説で、共和国で干拓事業の進展によって地図を何度も直さなくてはならなくなったカモメのおじさんを主人公に、共和国の経済発展の成果を描いたのです。
この童話は高く評価されました。
若い有望な新人作家が1人誕生したと持て囃されました。
勿論、チョチョン朝青サイドからは警戒もされましたが…
北の教育を受けて来た私は、キム・イルソンや共和国、朝鮮総連を称賛する小説を書く事が当然だと捉え、どんな作品でもそれをバックボーンにしました。
この様な筋金(スジがね)入りの真っ赤な文筆家でも有ったので、大学に入学する時、私を文学部に…と推す声が多かった事も事実です。
歴史と文学、高校の先生方の意見が拮抗して居ました。
私も悩んだ末、歴史を選択しましたが、おかげで初の本格小説『班長パンジャン』は永遠にオクラ入りしてしまいました。
しかし、その後も文芸同とのパイプは続き、雑誌『祖国조국』に3度に渡り手記を発表、好評を得る事が出来ました。
勿論、その頃はウリマル(朝鮮語)のみで執筆して居た事が当然です。
大学時代、先の朝鮮史の先生(2年生担任)がおっしゃった「大学には要らない(残れない)」と言うお言葉も有り、担任の先生方が寄宿舎にまで学生を起こしに来ても平気で先生にケンカを売る学部の雰囲気など…から私は朝鮮大学に残って教諭になる事がイヤになって居ました。
上の先輩たちも皆、大学院(研究院)に残る事を拒否する始末で、とても私が担う役目では無い気がしたのです。
なので、高校の先生を希望しました。
周囲には異様に見えた様です。
4年生の祖国訪問の間、学部では両親と進路問題を話し合って居ました。
初めて両親と会った新学部長は開口1番「オ・ソンホは暗い」とおっしゃったそうです。
私はこの歳まで「ウルサイ」とは言われても「暗い」と言われた事が無かったのでとっても驚きでした。
新しい学部長と殆ど接触が無かったのと、学部での活躍が殆ど無かった事が影響して居るのでしょう。
その評価は卒業後も「学部で影響力が皆無だった。まずは性格直せ」と言う手厳しい評価に繋がりました。
私が地方の高校、好きな京都に行きたいと希望して居たので、京都朝鮮高校に配置する方向で進みました。私が病気になる迄は。
一方、私を買って下さる先生方から、私を大学に残すべきだと言う声も上がって居ました。
次回述ベますが、図書館の館長先生などが強く推して下さいました。
いつも先生内部の話しを私に教えてくれる前学部長の先生は卒業間近に会った際に「聞いているか? 2年後に大学に戻る話しを。そう決まったらしいじゃないか?」とウソかマコトか分からない軽い口ぶりでおっしゃいました。
勿論、そんな話しは聞いて居ません。
今となっては真偽を確かめる術(スベ)も有りませんが…
私は完全に地方の高校に行くつもりで居たのですが、土壇場で肝炎で入院した事も有り、地方で生活するにはまだ身体が危ないと言う事で、朝高委員会指導員として配置される筈の友人とチェンジで東京朝鮮高校に配置される事になりました。
余談ですが、私の身体のせいで3人の運命が替わったのです。
しかし、卒業を1週間後に控えた頃、私は卒業論文の手応えから歴史の研究がしたくなりました。
他の学部で日本の大学院に進学する話しを聞き、私も日本の大学院に進学したくなったのです。
そして学部長にも宣言しました。
「日本の大学院に進学したいです。朝鮮大学にも戻りません」と。
それは学部に取ってエラく迷惑な話しでした。
学部長も激怒、「まずは朝高に就任して、その後に行け❗️」と。
卒業の謝恩会も憂うつで参加する気分では有りませんでした。
私は先生方に自分の意向を訴え、朝鮮史の先生は「日本の大学院のどこが好いんだ⁉️勝手に行け❗️」と激怒、私はボロ泣きしました。
日本の大学院に進学したいと思い立ったら高校になど行きたく無くなってしまいました。
今更ながら東京朝高には失礼で迷惑な話しでした。
皆、日本で1番大きな東京朝高に憧れ、選ばれて配置されるのに、行く前から行く気持ちも無いまま配置されるとは。
と言う事で、私は東京朝高の教師を1年若くは2年で終え、日本の大学院に進学する計画を立てて卒業しました。
高校教師をしながら英語の専門学校と英検の教室に通うべく手続きを取りました。
実際、2年間通いました。
この様な私の突飛な考えで、大学卒業が小さな混乱の中で終了したのです。
卒業式の前の夜、クラスの最後の集まりで皆スピーチしながら大泣きしました。
頑張った人も問題生も4年間の生活で込み上げるモノが多かったでしょう。
しかし、4年間さして良い思い出も無く、直前4週間前まで1人侘しく入院、2週間自宅通学して居た私は流石に泣かないワケには行かず泣き真似はしましたが、決して泣くまいと固く決め1人泣きませんでした。
元々、私は熱く熱し易い面も有りますが、どこか醒めた部分も有る人間なのです。
皆が泣いて居ると逆に白けてしまう面が有りました。
自分1人泣かなかった、シメシメ…とほくそ笑みしてる自分に有頂天になりました。
こんなに多くの苦しみを与えてくれたヤツらの前で泣いてたまるか?と思ったのです。
そんな私ですが、最後みんなで笑いながら東京駅に向かいながらもホームで新幹線のドアが閉まる瞬間、止めどなく涙が溢れて、もうホントに会えなくなるんだ…と皆と同様ナミダの別れをしました。
決して薄情者では無い事が証明されましたか?
こうして私の波瀾に満ちた4年間の大学生活が終了しました。
私にとっては進路の決まらない状態がその後も続く状態でしたが。
次回、高校教師の時代に移りたいと思います。
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