<ドラマ ハベクの新婦>
 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
213.河童カッパの由来
 
 
 
 
今回のワンポイントコラムはいつも以上に突飛な内容です(笑)。
 
毎度NHKのバラエティ番組「チコちゃんに叱られる」を観ていると、今週は『カッパ合羽』の由来を探る回でした。
合羽は戦国時代、それまで蓑(みの)を着用して居た日本のサムライたちが、南蛮貿易に訪れたポルトガル人のマントを見て身に着ける様になったのが起源だとか。
 
ポルトガル語『CAPA』とは「覆う物」全般を指す模様で、クッションカバーや本のカバー、ひいては心を隠して笑う「作り笑い」迄も指すとの事。
英語で言うCOVERに繋がるのでしょう。
 
雨具兼防寒着だった様で、かの信長も愛用して居た事は、多くの大河ドラマで認知済みです。
 
以前のワンポイントコラム雨具を扱い、我が国ではトロンイ(蓑)が主流だったと書いたので、果たして朝鮮ではカッパ合羽を着たのか?と探りましたが、その様な事実はなさそうでした。
ポルトガルとの接触は無かったし、支配層のリャンバンたちは、外国の良い物を取り入れようとする様な進取的な生き物では無かったでしょう。
 
仮に孔子孟子、明の皇帝でも取り入れた物なら、先を争って真似したでしょうけど(笑)。
 
<映画 カッパ クーと夏休みを>
 
ネタ切れに喘ぐ中、何とかしてネタを仕入れようと藁(わら)どころかカッパにさえもすがろうとした、幼気(いたいけ)な私の願いは木端微塵に吹き飛びました。
 
ついでに気になって妖怪のカッパ河童との関連性は?と探ると、何と面白い事が分かりました(あくまで私1人的に:笑)
 
あの河童カッパが朝鮮と関連が有ると言うのです。
 
ここでカッパ河童について。
Wikipediaの文章を引用します。
 
河童は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。
標準和名の「かっぱ」は、「かわ川」に「わらは童」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化した物。
 
ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なるが、芥川龍之介の1927年の小説『河童』によって知名度が上がり、代表的な呼び名となった。
類縁にセコなどがいる。
 
水神、またはその依り代、またはその仮の姿ともいう。
鬼、天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる。具体例としては各地に残る河童神社、河童塚(鯨塚、道具塚と同じ)がある。
 
(引用 Wikipedia)
 
と、いかにも純日本産の妖怪に見えます。
 
余談ですが、小さい頃、川の前に立て札が有り、河童カッパの絵が描かれて居ました。
小さい頃、良く川のフェンスを乗り越えて遊びましたが、河童が出て川に引き摺り込むと言われました。
子どもが引き込まれて死んだと言う都市伝説も有って怖かった事を覚えて居ます。
 
カッパが今の様にユーモラスな存在では無かった時代です。
思うに、子どもの水難事故防止の為の戒めだったのでしょう。
 
しかし、この河童カッパの由来が耳目を引きます。
 
先のサイトによると、河童カッパの由来は東日本と西日本に分けられ、東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠が仕事を手伝わせる為に作った人形が変じた物とされますが、西日本では河伯信仰に連なる大陸からの渡来とされると有りました。
 
<ハベク>
 
河伯ハベクとは中国の神話上の河の神の名前で、高句麗の朱蒙チュモン神話に出て来る、チュモンの外祖父でも有ります。
つまり、チュモンの母リュファ柳花の父親です。
 
この河伯ハベクを日本では、河童かっぱの異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓読みする事も有ります。
また一説によれば、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」「かっぱ」の語源とも言います。
 
 
これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の6世紀末から7世紀にかけての遺跡からも河伯に奉げられたと見られる牛の頭骨が出土して居ます。
この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を6世紀頃に求める者も居ると言います。
 
河童にまつわる昔話は北は青森から南は鹿児島まで全国津々浦々にのこって居ます。
また、「河童の川流れ」「陸に上がった河童」などのことわざもあり、広く親しまれている河童ですが、これが中国から八代にやって来て、やがて全国に広まったのだという説が有ります。
 
延享3(1746)年、江戸の菊岡沾凉という人が記した「本朝俗諺志」という書物にこのような話が出ています。
 
「中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て球磨川に住み着くようになった。
その後、一族は繁栄してその数九千匹になったので、その頭領を九千坊と呼ぶようになった。
その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた。
加藤清正はこれを怒り九州中の猿に命令して、これを攻めさせた。
これには河童も降参して、久留米の有馬公の許しを得て筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった。」
 
この話は後に「河童曼陀羅」など河童を題材にした小説で知られる火野葦平によって全国に広められました。
 
石川純一郎の著書「河童の世界」にも、元々河童の故郷は黄河上流で、河童の一族が海を渡って九州熊本に上陸したとして居ます。
その数9千匹に増え、悪い事を行う妖怪になったと言います。
 
韓国朝鮮にも日本の河童カッパに類似する妖怪がおり、『河童ハドン』として知られて居ます。
面白いのは、この河童カッパが朝鮮由来だと言う説が有るのです。
 
<カッパ到来の碑>
 
日本の九州の八代『河童到来の碑』という石碑が有ります。
遠い昔、この場所に河童が初めて海を渡って来た事を記念して立てた碑とされて居ます。
 
二つの石を組み合わせた立派な碑ですが、この二つの石をカワッパ石と呼びます。
何故そう呼ぶかと言うと次の様な言い伝えがあるからです。
 
最初に河童がやってきた所がここ徳渕津で、ここに住み着いたあと八代で生活を始めた河童はいたずらを繰り返し、人々の怒りを買います。
とうとう捕まってしまった河童は、2つの石がすり減ってしまうまで悪さをしないことを約束し、その代わり年に一度祭りをして欲しいとお願いし許されます。
 
この二つの石は後にカワッパ石と呼ばれ、橋石として使われていたそうです。
また、その時以来始められた河童を祀る祭りを「オレオレデーライタ川祭り」と言います。
 
「オレオレデーライタ」の意味については諸説ありますが、後ほど述べます。
 
上記の「河童到来の碑」の有る八代で、現地住民が河童を呼ぶ名前は「カラッパ」または「旅のひと(旅行者)」ですが、「河童到来の碑」の内容と河童の別の名前を根拠に、河童が朝鮮半島から日本に渡ったとするのです。
 
❶まず第1の根拠は河童カッパの別名カラッパです。
 カラッパは、三国時代の国「伽耶」のもう一つの名前『加羅カラ』+  『っぱ:〜する人』と言え、
 つまり『カラッパ』は名前自体が示す様に、「河童」の起源が朝鮮半島から渡った『伽耶の人』を意味すると言うのです。
 
以前、我が国の名前の由来でも述べて居ますが、伽耶カヤ加耶カヤ・伽耶・伽倻 • 加羅カラ •加良カラン・駕洛カラク・狗邪クヤ・拘邪・任那イムナなど多くの異名が有ります。
その中でも加羅カラと言う名前が当代彼らが使用した本来の名前だったと言われて居ます。
 
正(まさ)しく、カラッパ加羅カラの名前を使用して居るのです。
 
❷第2に旅の人(旅行者)ですが
「河童到来の碑」にも出ている様に、河童の起源となる人々が日本の外から来たのは明らかです。
「河童到来の碑」で「中国方面から来た」と叙述する様に、これらは部外者で有る事に間違い有りません。
 
河童到来の碑+カラッパ+旅の人を適切に混ぜて考えてみると、河童が海を渡ってから入ってきた人物を起源としている事は明らかです。
 
<はながっぱ>
 
❸番目の根拠は、河童の外形です。
中国の歴史書である「三国志」東夷伝「後漢書」を見ると、朝鮮半島南部の風習で、「子供が生まれたら頭を石で押し、平らにする。(褊頭)」という内容が存在します。
 
これらを根拠に、伽耶人が日本に渡った時に、彼らの平らな頭を見て日本人が驚きデフォルメしたのが、河童の特徴である平たい頭だと言うのです。
 
❹また、カラッパを祀り、毎年行った祭りの名前がまた耳目を引きます。
 
『オレオレデーライタ』
これは朝鮮語で「長く長く続く様に」「長く長くつながる様に」とも読め、先の伝説内容とも合致します。
 
この様に、河童カッパにも古代朝鮮と日本の繋がりを感じ取る事が出来ると言う事を述べながら、今回のコラムとします。
 
<参考文献>
나무위키
한국민족문화대사전 
[고찰] 일본요괴 '캇파'의 기원은 한반도인?
熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト 河童渡来の地・八代
 

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