<ドラマ チェジュンウォン済衆院>
 
6章 朝鮮の人物-59 近代10
池錫永チソギョン
 
 
 
夫婦でコロナワクチンの3回目接種を終えました。
私は身体に自信が有り、副反応が起こらない自信が有ったのですが、家内が口を酸っぱく言うので、大事を取って次の日も仕事を休みました。
 
気になる結果は、朝5時に起きてしまった寝不足のせいか副作用のせいか、軽い頭痛が有ります。
熱は37.0度で微熱でした。
午後には平熱に戻りました。
 
<お祓いのクッ굿>
 
肩と腰が少々痛みます。
ギックリ腰の軽い版と言った感じです。
一方の家内は朝37.2度だった物のダルさが有り、昼前に38度を超えたのでベッドで休む事にしました。
 
予防接種した当日は何故か眠くてリビングでゴロゴロ寝てましたが、コレも副反応の一種?
と言う事で、今の所、さほど影響は有りませんが、大事を取って気を付けます。
となると、ヒマな私が考えるのは勿論ブログの更新です。
新型コロナから着想を得て、ワクチン接種の歴史を綴りたくなりました。
 
<ジェンナーの種痘>
 
と言う事で、今回は19世紀まで猛威を振るった伝染病の撲滅に力を尽くした人物に焦点を当てたいと思います。
 
人類の歴史で最も多くの人命を奪った感染症は何でしょうか?
それは天然痘だったと言えるでしょう。
 
その衝撃度を見れば、中世ヨーロッパを襲った「ペスト」、第一次世界大戦時の「スペイン風邪」、そして今回の「新型コロナ」などの感染症も天然痘に比べる程では無かったと言えます。
 
<ドラマJINの緒方洪庵役 武田鉄矢>
 
しまいには、朝鮮では「ママ」という尊称語を付けて「ママ神」と呼び恐れました。
他に痘瘡、疱瘡、固有の漢字で時痘とも呼びました。
 
ヨーロッパで1773年エドワードジェンナー(Edward Jenner)がワクチン予防法を開発したのは、医学史的にも歴史的な出来事だったと言えます。
その影響力は、単に医学的次元にとどまらず、
「近代化の象徴」として、特にアジアの多くの国で西欧文物受容の橋頭堡の役割をしました。
 
<種痘 器具>
 
それ以前には、人痘法がインド、中国などより由来して使用されました。
これは天然痘に罹った人のカサブタを乾燥、弱毒化して人に接種する方法で、ヨーロッパにまで広がって使用されました。
 
我が国でも1880年代に人痘法で施術した記録が出て来ます。
しかし、人痘法を施術を受けても致死率が約1〜2%程度とされるので、危険性は依然として残りました。
 
英国の医師エドワードジェンナーは搾乳する女性が牛の天然痘に感染し、治ったら天然痘に罹らない事から発想を得て、種痘を使用した種痘法(ワクシニア法)を発表し一般化しました。
 
<チョンヤギョン丁若鏞>
 
我が国で種痘法は、実学者の大家、チョンヤギョン丁若鏞の図書「麻科會通」「種痘奇法」に記載されて居ます。
その方法は、牛の痘腫を針で傷を出して小児の腕の上に接種し、天然痘を予防する物でした。
 
1854年(哲宗5)には平安・黄海・江原道で接種が実施されたと言う記述から見て、丁若鏞が1835年頃に牛痘種法の効力を確信し、当時中国北京に密かに居たカトリック神父から、その方法を詳しく聞いて実施し始めた物と思われます。
 
丁若鏞以外にも、牛痘種法が満州と国境を接する義州から、当時先進地域だった平安・黄海道に普及されましたが、西学の弾圧により中断されました。
そこの所が、Netflixで配信中のドラマ「新米史官 クヘリョン」でも描かれて居ます。
 
<ドラマ新米史官 クヘリョン>
 
日本では、大沢たかお綾瀬はるか主演のヒットドラマ「JIN -仁」でも描かれて居た様に、緒方洪庵などの蘭学者により実用化されました。
 
我が国にはその後、1876年(高宗13)日本と江華島条約が締結された後、日本から正式に伝わりました。
 
当時、漢方医学者チソクヨン=チソギョン池錫永は、1879年10月に釜山にある濟生醫院に行って2ヶ月間種痘法を習得のち痘苗と種痘針2本を得て、12月下旬、ソウルに戻る途中、忠清道忠州で40人に種痘を実施しました。
 
<チソギョン>
 
これが、チソギョンが最初に実施した種痘です。
そして、その翌年の正月にソウルに戻り種痘を続けましたが、痘苗の量が不足して居たので、1880年の第2次日本修身使に随行し、東京で飼養法などを伝習した後、痘苗50ボトルを持って帰国しました。
 
1894年甲午改革が断行され、內務衙門に衛生局を置いて伝染病の予防や種痘事務などを引き受ける事になりました。
 
牛痘種繼所、種痘養成所、種痘所、漢城府種痘司、クァンジェウォン廣濟院、衛生試験所など種痘制度は度々変遷しましたが、数々の努力の末に我が国でも天然痘が撲滅に向かう事になりました。
 
<種痘場>
 
ここでチソギョンの生涯を見ましょう。
彼は1855年ソウル楽園洞で中人階級として生まれました。
父の友人の漢方医パクヨンソンに学問と医学を学びました。
以後、日本で種痘法を学んだパクヨンソンチソギョン種痘法を紹介してくれました。
 
<チソギョンの著した牛痘新説>
 
彼は1883年(高宗20)文科に合格して、正4品司憲府掌令などを歴任した事も有りますが、各分野の実情を指摘して朝廷の憎しみを受け、5年間全羅道 庚津に流配されてしまいました。
 
しかし、彼はそこでもワクシニア法の普及に力を注いだだけで無く、1885年には「牛痘新説」を、1891年には西洋医学に基づいた衛生書・予防医学書「神学新設」をハングルで出版しました。
復職後、甲午改革で刑曹參議などを務め、医学校に復帰して天然痘撲滅に努めました。
 
<旧韓末の西洋医院>
 
彼の情熱はこれに留まらず、1898年に官立の学校設立を請願して、我が国初の近代式医療教育機関で有る『医学校』が建てられ初代校長に推戴されました。
この医学校はその後、大韓医院医育部に改編されますが、これが現在のソウル大学医学部です。
 
医学校校長職を退いた後には、ウリクルの普及に、より力を傾けました。
 
   <ドラマクヘリョンでの種痘>
 
1908年2月に国文学者チュシギョン周時経などと一緒に「朝鮮語学会」会員に任命され、ウリクル(ハングル)表記を確立し、1909年に「字典釋要」を出版し、漢字学習の新たな方向性を提示しました。
1910年8月韓国併合後は、全ての公職から退き在野での余生を送りました。
 
それでも生涯のライフワークは捨てられなかった様で、1914年「幼幼堂」という小児診療所を設け、80年の生涯を終える迄、子供たちの世話を見ました。
 
<ドラマ チェジュンウォン済衆院>
 
日帝期には対外活動が殆ど無く、診療だけした事で知られていますが、近年、伊藤博文の追悼式で追悼辞を読んだという事実が知られ、親日派論議に包まれました。
 
しかし、1905年「乙支保護条約」に抗議して自害した閔泳煥の追悼辞も読んでおり、伊藤博文の追悼辞を読んだ後のわずか15日後に、親日派李完用を襲撃した独立運動家の李在明と連累した容疑で取り調べも受けており、当時の彼の心境は知る由も有りません。
 
こう言った些細な「玉に傷」は有れど、彼が我が国の歴史上に残した功績は甚大で、日本の緒方洪庵などと共に、特に我が国「種痘法の父」と呼んでも過言では無いと思われます。
 
 
旧韓末の医療を描いたドラマでは『済衆院チェジュンウォン』や日本ドラマ『仁-JIN』をリメイクした『ドクターJIN』などが有りますが、上記ドラマは外科医と朝鮮初の西洋医学病院を描いており、チソギョンは登場しません。
下記ドラマもまた、大院君時代を描き、全くのフィクションで進行する為、登場しません。
 
しかし、この時代の空気感を知るには良いドラマと思います。
 
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
나무위키 
사이언스올  우리나라 종두를 도입한 지석영
 
#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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   <ドラマ チェジュンウォン>