<キングダム アシン伝>
 
 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
179.四郡六鎮サーグンリュクチン
 
 
 
前回、韓国ドラマ映画レビューでNetflix映画「キングダム アシン伝」を紹介しましたが、その映画の舞台で『廃四郡』が描かれました。
 
 
これは朝鮮王朝初期に作られた『四郡六鎮』「四郡」が廃棄され放置された姿です。
今回はその元の四郡六鎮について見たいと思います。
 
四郡六鎮については、地理篇の咸鏡道の記事で簡単に触れました。
 
↓↓↓記事はコチラ↓↓

 

「四郡六鎮」は朝鮮王朝初期に開拓した北方領土です。
4つの「郡」と6つの軍事拠点「鎮」を開拓した事から、合わせてそう呼ばれました。
 
高麗初から我が国にとって高句麗の故土回復は至上命題でした。
ソフィ徐熙による「江東6州」回復や「ユングァン尹瓘の9城」などの開拓が有り、高麗末期に恭愍王の積極策によりモンゴルに奪われた領土を回復、新たに「江界萬戶府」(平安北道)を設置するなど西北領土の収復が有りましたが、太祖李成桂「威化島回軍」により中断しました。
 
 
しかし、その後も当時野人と呼ばれた女真族が跋扈していた東北地方への開拓が進められ、1391年には甲山地域が収復され「甲州萬戶府」が設置されました。
これにより、咸鏡南道一帯が我が国の領土に回復しました。
 
1393年(太祖2)には東北面安撫使の李之蘭がその新領土「甲州萬戸府」地域で大規模な築城をし、州・府・郡・県などを定め、中心地に府を設置、キョンウォン慶源府と命名しました。
 
これにより、朝鮮の東北方の領域は豆満江下流の一部の地域にまで達しました。
 
1401年(太宗3)には江界萬戸府江界府に昇格、1413年には甲州萬戸府甲山郡に昇格、これにより鴨緑江南岸が朝鮮の領土になりました。
 
<ドラマ 不滅のイスンシンにて>
 
その後も女真族との闘いは一進一退を重ねました。
女真族はかつて金を建てて中原を号令した事も有り、後に清となり、強力な勢力を形成して行きますが、満州地方と鴨緑江、豆満江流域に部族毎に生活していました。
 
太祖・李成桂が勢力を起こした咸鏡道地方にも女真族が多数居住しましたが、李成桂が後に武将として名前を得たのは、彼の配下の女真出身の将軍と兵士たちの功も大きかったと言えます。
従ってこの時期に、これら女真族ほど朝鮮王朝の国家安危に大きな脅威となる勢力は有りませんでした。
 
朝鮮王朝は新たに開拓した北方領土に新たな防御システムを用意しましたが、北方一帯には女真族の侵入が止まず、1425年(世宗7)には領土を南に撤退しようと言う消極論も出る始末でした。
 
<ドラマ 世宗大王>
 
これに対し世宗「祖宗の旧地を少したりとも減らす事は出来ない。」という強靭な意志の下、積極的な北進を推進する意思を示しました。
そして、1433年から本格的な『四郡六鎮』の開拓が始まります。
 
世宗は過去に東北地方の「ユングァン尹瓘の9城」が撤退した理由が、山を防衛線とした事にあった点を指摘し、山ではなく川を防御線とする方針を示しました。
 
<キングダム ポスター>
 
1433年(世宗15)閭延郡と江界部の中間地点に「慈城郡」を設置、女真族の侵入を迎え、1437年には鴨緑江を越えて女真族を征伐しました。
1440年(世宗22)茂昌県を新設し「茂昌郡」に昇格させました。
 
1441年にはウイェ虞芮郡を設置し、既存に有った「リョヨン閭延郡」、「慈城郡」、「茂昌郡」、「ウイェ虞芮郡」の合計4郡を設置しました。
 
<四郡の地図>
 
しかし、防御線が組み立てられて居ない鴨緑江の上流地域は女真族が侵入しました。
 
彼らの主目的はその当時中国で金銀と同様に珍重された「高麗人参」の存在でした。
明は我が国に朝貢品として高麗人参を要求しましたが、当時は人工栽培がようやく始まって間もない時期で、専ら天然物の人参が取引されました。
 
<天然物の高麗人参 サンサム山参>
 
当時中国では銀と同じ価値で取り引きされて居た事も有り、狩猟などの生業しか持たない彼ら女真族は、中国への人参貿易で生計を立てる者が多く、満洲、朝鮮北部の山間地を荒らし回りました。
この為、朝鮮王朝でも彼ら女真族への防御が必須だったと言えます。
 
ここに朝鮮王朝では、1441年(世宗23) 茂昌甲山の中間地点に三水保を設置し、後に三水郡に昇格させて、鴨緑江南岸の全地域を領土と確保するのに成功しました。
 
<四郡の位置>
 
以上の様に西北4郡リョヨン閭延、ムチャン茂昌、チャソン慈城、ウイェ虞芮を指します。
 
一方、朝鮮王朝では女真族を取り締まる傍ら、女真族の現地化や帰化を奨励し、彼らに生業を与えて定着させ、掠奪を辞めさせる方針を打ち立て少なからぬ成果を挙げて居ました。
 
その中で1433年(世宗15)、豆満江南岸で朝鮮王朝に帰順し定着していた女真族が競争相手の部族の奇襲を受け、族長が死亡し、残存部族が豆満江を越えて逃げる事件が発生しました。
この機会に乗じて世宗金宗瑞咸吉道節制使に任命し、東北地方に本格的な六鎮開拓を開始しました。
 
<キムジョンソ金宗瑞>
 
先にも述べましたが、「鎮」とは主に軍事拠点を指す言葉で、今も残る鎮の地名は皆、軍事的に重要な地点だったと言えます。
朝鮮王朝時代の行政区域でも有る「都護府」「大都護府」も同様に重要な軍事拠点を指しました。
 
↓↓朝鮮王朝時代の行政区域はコチラを参照↓
 
1434年(世宗16)、「キョンウォン慶源都護府」を移動、豆満江南岸の要衝地に会寧鎮を設置し、程なく「フェリョン会寧都護府」に昇格させました。
 
翌年の世宗17年(1435年)、寧北鎮に郡を設置して「チョンソン鍾城郡」に改称。
慶源から孔城を分離させて、新たにコンソンヒョン孔城県を設置し、世宗19年(1437年)に「キョンフン慶興郡」に改称しました。
 
1440年(世宗22)、慶源と鐘城の間に位置する多溫平にオンソン穩城郡を新たに設置し、翌年「チョンソン鐘城都護府」「オンソン穩城都護府」に昇格させました。
 
<六鎮の位置>
 
1443年(世宗25)には、キョンフン慶興郡「キョンフン慶興都護府」に昇格させ、6鎮開拓と同時に、女真族の侵入を防ぐ為に、1442年から豆満江沿い会寧から拠点キョンフンまでに長城で有る「行城」を建設し完成させました。
 
最後に1449年、旧キョンウォン慶源都護府を主ポイントとする「プリョン富寧都護府」を設置して、6つにに繋がる六鎮の構築を終えました。
 
以上の様に東北の六鎮オンソン穩城、キョンウォン慶源、キョンフン慶興、プリョン富寧、フェリョン會寧、チョンソン鍾城の6州です。
 
上記のように国境の防衛体制の一環として、四郡と六鎮を設置しましたが、単に郡県を設置した事で終わる事は有りませんでした。
 
 
ここには、補助的な防御施設の整備と防御施設を運用していく人材の問題が残って居ました。
こうして、世宗期の「四郡六鎮」運営は、開拓と行城の築城、従民入居が同時に行われました。
 
この二つの事業は、多大な労働力と物資、行政力を必要とする大規模な事業でした。
 
<行城 長城>
 
行城(長城)とは、従来の山城や邑城のように拠点地域に限られたサイズで構築された城では無く、防衛線に沿って長く築造された城を言います。
 
もちろん朝鮮が積んだ行城は、中国の万里の長城のように長く築いた城ではなく、所々山や川などの対象物を利用して、その間を城に積み上げた城で、この地域では10年以上掛け、完成しました。
 
従民の確保も大事な案件です。
人材を確保せねば、この様な開拓も運営もまた、立ち行かなくなります。
 
<ドラマ 不滅の恋人>
 
従民を増やすのに近隣地方の民が不足して居たので、代案として慶尚道や全羅道など南部の民衆を新しい地域に移住させる計画を立てました。
 
当時行われた従民は、最初に土地と官職を与え、税金を免除する条件などを掲げ、志願者を募集する方式でしたが、志願者の数が足りないと強制に割り当てる方式で進行しました。
 
以前にも朝鮮の統一問題で触れた様に、分断長期化による南北の異質化が叫ばれる時、元々の南北の人種の違いを挙げる声が有りますが、この時期の大々的な移住政策により、実は南北の住民がかなり同一化されたと言えます。
 
    <ドラマ 不滅の恋人より>
 
このような四郡六鎮の開拓とそれに伴う防御施設の整備、人材の補充などを介して、世宗晩年には比較的安定した防御システムを備える事が出来る様になりました。
 
こうして世宗の強力な意志で持続した国境防衛線でしたが、彼の死後、これらを維持する難しさと国際情勢の変化は四郡六鎮に大きな変化をもたらせました。
 
<四郡周辺>
 
女真族を始めモンゴルの末裔オイラート族が興起し、東アジア社会の緊張感を高めました。
オイラート族は明に侵略し、明の皇帝を殺害するなど大きく威力を示しました。
 
この様な状況で、彼らが朝鮮に侵入した場合の対応方法について朝廷では議論が分かれ、現在の防衛線の維持が難しいとの判断の末、四郡より撤退する方針を固めました。
 
かくして、約20年間、意欲的に推進した四郡の開拓は、最終的に撤退に終わりました。
 
四郡の住民はすべて江界に移住され、この場所は「廃四郡」とし、危険地域に指定され居住が禁止されました。
 
<キングダム アシン伝>
 
映画「キングダム アシン伝」に登場する「廃四郡」とはこの時期の存在を指します。
しかしながら、四郡の撤廃が領土の放棄と言う意味では決して無く、防御上の後退と行政区域上の変動で有るだけでした。
その後、朝鮮後期には四郡を含めた西北各地に郡が復活して居ます。
 
一方、大規模な兵力の侵入からより自由だった東北地方、咸鏡道地域に設置された六鎮は正常に機能し、その後も着実に朝鮮の国境防衛線として機能しました。
 
特に国境貿易の中心地として成長し、一部は豆満江以北まで影響力を保持するに至りました。
 
 
この様に、我が国の宿願で有った高句麗故土回復に於いて四郡六鎮は、現在の国境で有る鴨緑江豆満江以南を我が国の領土として確定させたと言う意味に於いて大きな意義をもたらした存在だと言えるでしょう。
 
女真族との闘いは史劇ドラマ映画に良く描かれます。
「不滅のイスンシン」などの大河ドラマ、「不滅の恋人」などのヒュージョン史劇にも登場します。
 
<参考文献>
한국민족문화대사전 
국사편찬위원회 우리역사넷 
나무위키
 

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