<チェスンフィ記念公演より>
 
6章 朝鮮の人物-71 現代7
崔承喜チェスンフィ
 
 
 
 
狙った訳では有りませんが、気が付けば植民地時代の芸術家の紹介が続いて居ます。
知ってそうで知らない人物なのでとっても新鮮です。
 
今回もその流れで世界的に有名だった朝鮮を代表する『舞姫』を見たいと思います。
解放後共和国に越北し、その後粛正された為、書くに当たり隘路は有りますが、それを補って余り有る吸引力が有るので、気をつけながら書き進めたいと思います。
 
 
彼女崔承喜チェスンフィは1911年11月生まれ、今気付きましたが、私と誕生日が1日違いです(笑)
 
彼女の家は名門で、父親は1894年、科挙最後の年に合格して居るソンビ(士:学者)です。
 
しかし、子供たちには開放的な態度を示し、子供たちに新式教育を受けさせました。
 
その様な父親の影響でチェスンフィ淑明女子高等學校を卒業しました。
学業成績も非常に優れ、小学校の頃にはずっと全校1位を取って、飛び級を2回もしており、同期より2年早く卒業して居ます。
 
 
しかし、彼女が学校に通う頃家勢が傾き、奨学金を受けながらやっと学校に通う事が出来、毎日の食事の心配をする程貧しい生活をしたそうです。
 
兄が就職してそれなりに給料を持って来たので、ようやく糊口する程度になったと言い、この困難な生活のトラウマか、舞踊家として成功した後も彼女は、金銭面ではケチと言う言葉を良く聞く程、非常に細かかったと言います。
 
兄弟間でもお金の問題でいざこざがよく起きたそうです。
また、チェスンフィは過度に贅沢を好み、夫アンマクや周りの人達は彼女に贅沢な生活を自制する様に何度も忠告しましたが、その習性は変わらなかったそうです。
 
越北後もその習性は治らず、粛正・失脚の一要因になりました。
 
 
女学校を卒業した後、教師は彼女が音楽に才能が有ると判断し、チェスンフィ東京の音楽学校に進学する様に推薦しましたが、年齢に達して居ないと言う理由で入学許可が下りませんでした。
 
また、教師として就職する為、京城師範学校の入学試験を受けた彼女は8.6倍の倍率の中で7位で合格するも、またして入学年齢に達しないと言う理由で合格が取り消される不幸を味わいます。
 
彼女はかなり落ち込みましたが、最終的に兄の勧誘で、当時日本の大舞踊家、石井漠の門下に入り踊りを開始しました。
 
 
彼女はこの舞踊団で名声を得、数年後には舞踊団残留への師匠の切望を拒否して独立して京城に
「チェスンフィ舞踊研究所」を開設しました。
 
1932年に日本で初の単独公演を行った後、夫アンマクの手腕により「チェスンフィ後援会」が結成され呂運亨、川端康成など大物が後援しました。
 
チェスンフィは、地方の舞踊師の後を追って伝統舞踊も貪欲に学びました。
妓生を探しながらまで伝統舞踊を学びに通ったと言います。
 
<記念公演>
 
彼女は伝統舞踊と現代舞踊の融合、今で言うヒュージョンを試みた新舞踊の創始者となり、今日の南北朝鮮舞踊界のみか、中国舞踊界にまで多大な影響を及ぼしました。
 
我が国の本格的な現代舞踊はチェスンフィから始まったと言っても決して過言では有りません。
 
彼女は1930年代後半からアメリカ、ヨーロッパ、南米など世界巡回公演を通い、ヘミングウェイ、ジャン・コクトー、ゲイリークーパー、チャップリン、ピカソ、ロバート・テイラーなどの当代の著名人が彼女の公演を観覧する程でした。
 
特にロバートテイラーチェスンフィととても親密で、ハリウッドの映画製作者たちにチェスンフィを紹介し、ハリウッド映画出演を斡旋してくれましたが、太平洋戦争によりハリウッド進出は未完に終わってしまいました。
 
 
チェスンフィは当代の代表的な新女性で、モダンガール、ファッションリーダーとして朝鮮と日本の流行をリードし、さらには何枚かアルバムも出して居ます。
彼女は特にリズム感覚が非常に優れて居ると評価されました。
 
映画にも多く出演しますが、この内舞踊映画「半島のダンサー」は彼女主演により製作された日本映画です。
この映画の評価はさほど高く有りませんが、彼女の人気のおかげで、なんと4年もの長期に渡り上映され、興行には大成功しました。
 
 
しかし、その光の裏で、影も存在します。
1940年代に入ってから日本軍事慰問公演に出演して国防献金を何度も出すなど積極的な親日活動を行った事、
彼女自身傲慢で、周囲の者たちに帝王の如く振る舞った事などです。
 
この様な事実から、解放後の彼女への韓国での評価は決して良い物では有りませんでした。
彼女は戦後、中国で国民党に抑留された後1946年5月ようやく帰国する事が出来ましたが、帰国直後の記者会見で
「それまでの間、自意、他意を問わず親日をしたと言う事は言い訳しません。
それなら私チェスンフィが解放された祖国に来て贖罪出来る事が何だろうか、それは一つだけコリアンバレエを創建する事だけです。」
というインタビューをしましたが、メディアの反応は良い物では有りませんでした。
 
 
チェスンフィの夫アンマクは独立運動に身を投じて居た事も有り、光復直後越北して彼女は1人帰国しましたが、韓国での世論の悪化、夫アンマクの勧誘に彼女は共和国に越北する事を決断します。
 
越北した彼女は、これまでの名声により『功勲俳優』称号を受け、金日成の特別な配慮によりピョンヤンでも「チェスンフィ舞踊研究所』を設立、共和国各地の伝統舞踊を発掘し共和国地域の舞踊を発展させて行くなど、活発な活動を行いました。
 
<韓国での舞台劇>
 
この舞踊研究所は、今の玉流館がある場所に位置し、日帝期には料亭でしたが、金日成の指示で彼女の為に改造して提供されたそうです。
 
授業の内容は、朝鮮舞踊から現代舞踊、バレエ、ソ連の民族ダンス、インドのダンスや中央アジア地域の民族舞踊などで、様々な種類のダンスを学びました。
チェスンフィ舞踊研究所の人員は、チェスンフィが共和国全域を回って直接選んだと言います。
彼女に抜擢され入団に成功しても、授業態度が怠慢であるとか、実力に発展がないなどの場合容赦なく追い出され、泣く泣く家に帰る人も多かったと言います。
 
彼女は後に、最高人民会議(国会)代議員にも選出され、共和国最高の称号で有る『人民俳優』も授与されて居ます。
 
<舞踊研究所の風景>
 
また、1951年には中国周恩来の要請を受け、中国中央戯劇学院にもチェスンフィ舞踊研究所を開所し、弟子たちを教え、中国の伝統的な舞踊と京劇の近代化にも大きな貢献をしました。
 
その一方、彼女の人間性は共和国でも変化は無く、様々な傍若無人な行動のエピソードが残って居ます。
 
順風満帆に見えた彼女ですが、夫アンマクが1958年甲山派の韓雪野の粛正の前兆として、ブルジョア批評家として、CAP系文学家と一緒に粛清された事が、
彼女の立場が揺れ始めるキッカケになりました。
 
 
アンマクは逮捕され、家宅捜索の際に、自宅でチェスンフィの金、銀、宝石や外国物品と宝物、美術品、骨董品がたくさん出て米国のスパイに追い込まれます。
 
彼女もブルジョワ的な舞踊家と批判されるキッカケになりました。
彼女は1958年の中国公演で舞踊の単独公演を主張し、国立交響楽団と歌手を伴っての総合公演を要求する党中央と軋轢を起こしました。
 
更に1958年に出版された彼女の著書「朝鮮民族舞踊の基本」で著者の前書きの言葉の中に、金日成の賛美と賛辞を省く失敗を犯します。
 
<映画 サド城の話し>
 
この頃、金日成は芸術家が集まった席で
「幾つかの作家芸術家は良いと賞賛をすればやり、賞を与えなければしないと言う風にして居ます。
舞踊大家と自認するある芸術家は、党と人民の為に仕事をより良くする様に、党から指導と援助を与えたが、彼はお金と賞賛と賞を沢山もらう事が好きで、それ以外の場合には不平を言って、不満を投げ、自分の作品の論評を新聞に出さなければ文句を投げる所にまで至って居ます。
彼は、自分だけいい気になりながら、自己主張する余り、まるで自分が存在しなければ朝鮮の舞踊芸術が発展する事が出来ないかの様に高慢に行動して居ます。」
 
<サド城の話しのリメイク公演>
 
直接名前は挙げて居ない物の、彼女の批判で有る事が間違い無く、程無く彼女は公開批判され全ての役職から解任のち自粛、1年後に再び復帰する事が出来たと言います。
 
その後、彼女は1967年までには「ムンイェチョン文芸総中央委員」、「朝ソ親善協会中央委員」、「舞踊家同盟中央委員会委員長」などの肩書きを持ちましたが、それ以降めっきり姿を消します。
1967年に韓国と日本のメディアでチェスンフィの粛清説が報道されますが、金日成の5.25教示後、共和国版「文化大革命」とも言える図書整理事業が開始し、金日成の偶像化が本格化した時期で、金正日が文化芸術の前面に出て、革命歌劇、映画などを創作し、権力を掌握し始めた時期と一致します。
 
 
彼女が制作した「沙道城の話사도성의 이야기」もこの時期批判を浴びました。
 
この作品は彼女が1年の間、心血を注いで台本を脱稿した後、1954年に初演された舞踊劇で、新羅時代に外敵を相手に戦った話しを綴って居ます。
 
彼女の舞踊劇の中で最も優れた傑作と評価を受け、金日成のサポートにより1956年共和国初のカラー映画として映画化もされて居ます。
 
その他の作品でも金日成を賛美して居ないと言う理由で批判を受けました。
 
彼女のその後の足取りや、正確な死亡年度と日付は知られて居ません。
強制収容所で亡くなったとも、がんで闘病中に亡くなった、或いは銃殺されたとも伝えられますが、いずれも脱北者の主張で有り、信頼性に乏しいです。
彼女を祀った愛国烈士陵には1969年8月8日に死亡したと記載されて居ます。
 
 
こうして彼女は失脚、粛正されましたが、1990年代に金日成回顧録「世紀と共に」で再評価され実質的に名誉回復し、2003年に愛国烈士陵に埋葬され、正式に名誉回復しました。
2011年にはチェスンフィ誕生100周年を祝い、記念行事を大々的に行い、「沙道城の話」のリメイク公演が制作発表されました。
 
今後、より詳しい情報が公開される事を期待したいと思います。
 
<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
세계일보 ‘전설의 무희’ 최승희, 알려지지 않은 이야기  사상투쟁 제물로 파국적 운명… 사후 34년 만에 ‘열사릉’ 안장
 

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