ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
158.花郎ファラン
本日からNHK BSプレミアムで新羅時代を描いたヒット史劇ドラマ「ファラン花郎」が始まります。
今回はこれにちなみファランについて見たいと思います。
ファランとは新羅時代の青少年修練団体です。
ファラン花郎という言葉は「花のように美しい男性」という意味で、ファパン花判・ソンラン仙郎・ククソン國仙・風月主などとも呼ばれます。
社会的な団体的機能を持ち、多くの人材を輩出しました。
「三國志」と「後漢書」には、
既に三国時代に我が国の若者たちが独自の集会を持ってイベントを楽しんで居た事が記録されて居ます。
高句麗ではキョンダン扃堂と言う組織が有り、
未婚の青少年達が武術を練磨し、
武士道を極めました。
三国の中で1番発展が遅れた新羅では
中央政府によって2人の女性を中心とする青少年団体制度「ウォンファ源花:原花制度」が始まりましたが、痴情事件が発生し失敗に終わりました。
征服戦争を始めた6世紀前半に政府としても人材を養成、確保する必要性が急務となり、新たな軍事制度が作られましたが、真興王(540~576)時代になって正式にファラン制度が整備されました。
ファランは国家機関では無く一種の半官半民の性格を帯びた組織で、最盛期には7個以上のファラン集団が同時に存在したそうです。
ファランは真骨貴族の中で容姿が良く信頼出来、社交性に富んだ若者が推薦を受け選ばれました。
メンバーは多い時には1千人にもなりました。
彼らは一定の期間を定めて組織生活をしました。
通常3年を一つの区切りとして修練期間とし、15歳から18歳までの若者を対象にした様です。
金剛山・智異山のような景勝地を探訪し国土愛を育てる一方、ファラン道を研磨しました。
山に篭り修行するなどシャーマニズムの要素も大きく作用して居ます。
ファランは自らの意思に基づいて団結して共通の目標のために一定の期間修練する団体だったので、成員間の人的関係は非常に密接した関係でした。
それらの友情は単なる友情関係を超え、仲間同士『死友』を約束する関係でした。
この点についてファランの成員間に一種の同性愛が行われたのでは無いかと推測する学者も居ますが、それを直接確認出来る史料は無く確かな事は分かりません。
いずれにせよ彼らの友情関係や団体意識は非常に強かったと言えます。
ファランはユニークな武士道として、戦士の名誉を重んじる武士道の精神に満ちて居ました。
日本の武士道などとは異なる特色として、歌と踊りが修練に欠かせない項目だった事が挙げられます。
本来教育に於いて歌が若者の士気の高揚に大きく貢献する事が知られて居ますが、ファランでは「トリョンガ徒領歌」など歌舞の組み合わせを重視して修練しました。
ファランの歌と踊りは遊びの性質から大きく外れた物では有りませんが、遊びの思想は『直』と『礼』のバランスの調和を強調した儒教の礼楽思想とも相互通じる所が有ります。
ファランは三国抗争が激しくなり始めた真興王の頃から一世紀の間、活気を帯びましたが、高句麗と百済を相手に百年の長き期間の征服戦争が終わりを告げるとその存在意義は徐々に減少しました。
更にその後、100年の間に平和が訪れると全体的に社会綱紀がぼやけ始め、修練と言う性質より名勝地巡礼などをただ楽しむための遊びの性格に徐々に変質して行きました。
新羅末期の学者崔致遠は後期のファラン道を『風流道』と称し、その教えの起源は儒教・仏教・道教の混合だと規定して居ます。
ファラン道は後期新羅時代になると当然あるべき緊張関係を失ってしまい、特に9世紀に入って王権が衰えるにつれ次第に貴族の門客ないし私兵的な性格を帯びる集団に変質して行きました。
そして新羅の滅亡と共に制度さえ消えましたが、高麗時代宮中の年中行事パルグァンフェ八關會の祭儀に良家の子弟を選抜して歌舞を演じた行事などにその遺風が残りました。
朝鮮王朝時代の私学十二徒の様な民間の教育機関の存在もファランの伝統が残っていた事に由来すると主張する学者も居ます。
しかし、朝鮮王朝時代にはファランの「武士道」精神と言う本来の目的は儒教精神の中で完全に忘れ去られて行きました。
ドラマ「ファラン花郎」は数少ない新羅時代を描いたドラマとして、歴史的事実に基づいたファラン制度の描写が期待されましたが、ヒュージョン史劇要素が強く、現代劇の時代劇版になってしまったと言う惜しい評価が大勢でしたが、青春群像劇としてその価値が有ると言えます。
今や大人気を博して居るアクターのオールキャストなので、是非楽しみたいと思います。
またドラマレビューで詳しく語らせて頂きます。
<参考文献>
한국민족문화대백과사전