6章 朝鮮の人物ー79 現代15
金日成キムイルソンと金正日キムジョンイル
 
 
 
激動の朝鮮の現代史を彩った人物紹介も半分を越えました。
解放後の南を描くには何人ものアクターが必要ですが、北を描くには2人で充分です。
今回は今も生ける神的存在、金日成キム・イルソン金正日キム・ジョンイルを中心に共和国解放後の現代を描きたいと思います。
 
朝鮮総連の末端で生命(いのち)を捧げ前半生を生きて来た私(や同世代)にとって彼、金日成キム・イルソンこそは正に『生き神』と呼べる神聖な存在でした。
 
修学旅行での共和国訪問の際、彼の参席する大会に急遽参加出来る事になり、張り詰めた雰囲気のなか大音量のテーマソングが奏でられ始めるや颯爽と登場した彼を遠目に見つけ、条件反射の様に溢れ出る涙を拭うヒマも無く大勢で只々『バンザイ!』を、声が枯れる程絶叫した事が今も思い出されます。
 

 

小さな頃から歌に歌う程『洗脳』されて来たのです。
感動するなと言う方が野暮です。
 
ここで誤解無き様お願いしたいですが、前回述べたようにウリハッキョでの教育も変化があり、朝鮮総連の構成員による彼らの立ち位置も過去と現在では多少異なる事を付け加えて置きます。
 
しかし、この様に金日成共和国朝鮮総連にとって呪縛の様に今も身体に張り付いた世界的にも稀有な存在です。
組織を離れ20年以上経ち、日本人拉致事件と言う天地をひっくり返すショックがようやく収まって来て、やっと冷静に彼を見つめる事が出来ます。
 
彼の前半生、満洲抗日闘争については前回書きました。
 
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反発を覚悟しましたが、周囲からは特に有りませんでした。
もっとも、金日成回顧録に沿って書いたので非難される筋合いは有りませんが(笑)。
彼に対し在日コリアンの半分の世界(つまり朝鮮総連)で今だに少しの批判も許さない、冷静になれない雰囲気が有る事は事実です。
以前にも書きましたが、私が朝鮮総連組織に在籍してたらこんな不埒な事は手が裂けても書けません。(笑)
 
彼の功罪を自由に語れる日はいつの事でしょう。
歴史学徒として思うに、その日こそ共和国が先進国まで行かなくとも中国の様に改革解放、発展する日だろうと確信します。
 
戦前の活動は上記記事に譲るとして、解放後から話しを進めましょう。
1945年9月19日彼は第88国際旅団朝鮮工作団の一員として元山に上陸、帰国しました。
彼は平壌市警務司令部副司令官に任命、9月末以北朝鮮に新しい共産党指導組織を作ることを提案します。
1国1党の原則に反すると強く反発する国内派を押さえ朝鮮共産党北朝鮮分局を設置しました。
 

 

1946年2月8日各地の人民委員会を基盤に北朝鮮臨時人民委員会が樹立され、委員長に選出されました。
ソ連軍政は民族主義者のチョマンシク曺晩植も包摂しようと交渉しましたが、信託統治問題などソ連の意に従わなかった為諦めました。
 
3月から8月までいわゆる「民主改革」が行われ土地改革など社会民主主義改革が行われました。
 
1946年8月には朝鮮新民党を吸収して北朝鮮労働党を結成、11月3日には、人民委員会の選挙が行われ北朝鮮の最高執行機関である北朝鮮人民会議が構成され、翌年2月21日金日成北朝鮮人民委員会の委員長に選出されました。
南での大韓民国建国を受け、1948年9月9日朝鮮民主主義人民共和国が建国され内閣首相に公式就任しました。
 
毛沢東率いる中国共産党国共内戦蒋介石の国民党を追い出し中国大陸を席巻すると、 自分も武力で朝鮮半島を統一する事が出来ると確信します。
 
これは道義的責任は残るものの、未完の社会主義(プロレタリア)革命で有り『正義の戦争』でした。
 

 

実際、人民軍が開戦3日でソウルを占領した時、ソウル中央機関の前で大規模な占領式パレードを行って人民の大蜂起を促して居ます。
 
しかし、結果は周知の通りです。
 
更に人民軍は占領地で「国家反逆者」(韓国の公務員、右翼、資本家、地主、兵士、警察など)を大々的に検挙、逮捕された者は数万人に達しました。
逮捕された反逆者は人民裁判で即決処分されました。
親日文学者リグァンス李光洙も自己批判の上、北に連行され行方不明になって居ます。
他にも強制的な食料徴発、土地改革、軍隊募集などで韓国の民心は共和国を完全に離れてしまいました。
 
余談ですが、その後の韓国占領では白色報復テロが起こり、テロの応酬が繰り返され同族相争の悲劇が起こって居ます。
 
この戦争の被害は言い尽くせぬ程で、人民軍の死者と負傷者80万人、韓国軍60万人、国連軍54万6千人、中国軍97万3千人です。
共和国民間被害者28万2千人、行方不明者79万6千人、韓国民間人死者27万5千人、負傷23万人、拉致8万5千人、行方不明30万3千人です。
当時の南北の全人口の5分の1が被害を被り、家族に1人以上が被害を受けたと推定出来ます。
今でも韓国国民意識として金日成キム・イルソンに戦争責任を問う声は大きいです。
 

 

戦後、彼は権力基盤の強化を図ります。
その頃共和国の権力構造は彼ら満州派甲山派、朴憲永の南労党派、延安派、ソ連派の連合政権で有り、たとえソ連とスターリンの支援を受けて権力を握った金日成とて、彼の絶対独裁体制を簡単に敷けた訳では有りませんでした。
 
彼の統治半世紀を振り返って見ると社会主義国家建設と自己の『唯一思想体系』確立の為の粛清の嵐と言えます。
戦争後、戦争責任を負わせる形で朴憲永を始めとする南労党派を粛正、1956年の8月宗派事件、1958年の「崔昌益国家転覆陰謀」事件を通して延安派ソ連派を壊滅させました。
そして1967年朝鮮版「文化大革命」と言える図書整理作業にて二人三脚の甲山派さえも粛正し、「唯一思想体系」を確立します。
 
 
彼の「金日成キム・イルソン主義」の思想的核心と呼べる「主体思想」マルクス主義から始まり特にスターリン主義、儒教的家父長主義、キリスト教的世界観、シャーマニズム(巫教)的個人崇拝、特に近親憎悪をやめない「毛沢東主義」の影響を強く受けており、それらの要素を現代朝鮮北部の状況に合わせ創始した独創的思想と言えます。
 
朝鮮戦争共和国を廃墟にしましたが、彼は自分のカリスマと人民の熱意、ソ連と東欧社会主義国の莫大な援助をバックに戦後復旧活動を急ぎました。
 
1日に千里を駆けると言う伝説の名馬『チョルリマ千里馬』に掛けて「千里馬運動」が始まり、民衆の『ヤル気』を最大限に動員し加速度的に工業生産を拡大させました。
農業でも自営農家から多くの反発の有ったソ連•東欧諸国の例を尻目に素早い「農業集団化」を完成し、社会主義生産関係を完成させました。
 
そして、とうとう1970年には堂々たる「社会主義工業国」を宣布します。
1960年代から1970年初までのこの時期、韓国とは比べ物にならない程共和国の経済的優位は目立って居ました。
それと並行した彼の尊厳は共和国で未だかつて無い程のカリスマ性を保ち、彼は絶対的な権力を手にしました。
 
こうして共和国にて絶対的な権力を握った彼ですが、ソ連、中国での指導者の死後批判に心を痛め、社会主義では異例で有る権力の世襲を進めます。
勿論、この世襲化はチェヒョン崔賢オジヌ吳振宇を始め、彼の長年の忠実な部下たちの積極的なアプローチにより始まり、彼らの大きな協力の元で進んだ事には間違い有りません。
長年困難を潜り抜けて来た彼ら満州パルチザン派の結束力は想像を超える程強く、長年の闘いの中で固い絆で結ばれており、後継をスムーズに進める事で彼らの既得権も確保出来る物と固く信じられて居るのでしょう。
 
権力委譲を終えた彼ですが、核問題の危機に際してカーター元大統領を招聘して会談するなど、外交と祖国統一問題では引き続き存在感を示しました。
 
しかし1994年7月7日、彼はキムヨンサム金泳三との南北首脳会談を数日後に控え、宿泊施設に使われる妙香山特閣で倒れ心筋梗塞で逝去しました。82歳でした。
後述しますが、彼の突然の逝去をキッカケに未曾有の「苦難の行軍」が始まります。
 
世襲で後継者となったキムジョンイル金正日について見ましょう。
 

 

彼は金日成金正淑キム・ジョンスクの間でソ連領88旅団キャンプで1942年2月16日に生まれました。
共和国では、金正日が白頭山近くの密営で誕生したとして、白頭の密林チプ(家)を大々的に宣伝して居ます。
 
幼く母親を亡くし(1949年)、金聖愛キム・ソンエが異母兄弟、金平日キム・ピョンイルを産みましたが、生母と弟の死、継母との葛藤を経験して育ったので、自分の唯一の肉親である妹金敬愛キム・ギョンエに対する格別の愛情を抱くようになったと思われます。
 

 

1960年ドイツの航空軍官学校に留学するもすぐ帰国して居ます。
 
彼は1960年金日成総合大学経済学部政治経済学科に入学、64年に卒業しました。
大学在学中の1961年7月に朝鮮労働党に入党して居ます。
 
彼は17歳から金日成キム・イルソンの公式行事に同席、他の政治局員の代わりに父親のスケジュールを自分が直接管理し、詳細な情報まで自分が直接検討しながら指示し報告を受け、父の公式的な活動を輔弼しました。
 
彼は金日成キム・イルソンの権威を絶対化し、彼を崇拝する忠臣の第一人者たる事、いわゆる永遠のナンバー2になる事で自己の後継基盤を築く戦略を死ぬまで堅持し実践しました。
1972年の金日成キム・イルソン生誕60周年を記念した彼の偶像化にも先頭に立っています。
まさしく今に続く金日成キム・イルソンの本格的な個人崇拝がこの時を起点に始まったと言えるでしょう。
 

 

1967年粛清された朴金哲パク・クムチョルの抗日闘争の映画を製作した事を知った金日成キム・イルソン「映画芸術の分野で反党分派分子の余毒を完全清算せよ」という指示を下した後、金正日キム・ジョンイルは自分の趣味を生かし、24歳の時に宣伝扇動部文化芸術課長の座を引き受け力を発揮します。
 
この時、自分の指揮下、共和国内で革命的大作とされる金日成キム・イルソン偶像化映画を製作、「遊撃隊5兄弟」「ある自衛団員の運命」「血の海」「花を売る乙女」「密林よ語れ」など金日成キム・イルソンの遊撃闘争の最中に上映された演劇を映画、革命オペラに再構成する事で金日成の革命伝統を唯一の革命伝統とする共和国の思想体系の完成に大きく寄与しました。
これによりこれまで金日成キム・イルソンの有力な後継者と目されて居た自分の叔父のキムヨンジュ金英柱に忠誠競争で優位を占め、これらの成果により金日成キム・イルソンの信任を得、党書記局の組織宣伝担当秘書の座に上り自己権力の地位を強化しました。
 
1972年に彼は毛沢東紅衛兵にヒントを得た『3大革命小組』を組織、 運動を繰り広げました。
 
<朝鮮映画の傑作と名高い花を売る乙女>
 
経済機関従事者、大学生、大学教員、工場・企業所の若い未婚男女を対象にしたこの組織は、全国各地の工場や協同農場、行政機関などで幹部の保守主義、経験主義、官僚主義などの悪習を改造する為の思想闘争をすると言う名分で全国の生産現場に配置されました。
幅広い分野での制御・調整・監督権を行使する強大な権限を与え、3大革命の高揚を目指しましたが、様々な矛盾を呼び下火になった事は歴史篇で述べました。
 
まさしく彼が登場した70年代初から共和国経済の停滞が始まり、韓国に水を空けられる事になるのがアイロニーです。
勿論これには様々な要因が有り、彼だけの責任には出来ません。
 
どうあれ金正日キム・ジョンイルはこの小組活動で自分が権力の末端から主要機関に至るまで、広範かつ細かく直接監視、制御する事が出来る指揮系統を創出、これをベースに独自の政治的影響力を大きく拡大し、1973年には組織宣伝担当秘書、組織指導部長、宣伝扇動部長に任命され、1974年党中央委員会総会政治委員に選出され、金氏一家の権力私有化を陣頭指揮しました。
 

 

彼は1974年、党中央委員会第5期総会「唯一の後継者」として正式に選出されましたが公式発表は控えられ、「栄えある党中央」と言う言葉が彼を表す称号として機能しました。
 
そして1980年満を持した朝鮮労働党第6回党大会政治局常務委員に選出され、後継者として公式に発表されました。
以後、1983年に開かれた党代表者会第7期2次会議党政治局常務委員、党書記、軍事委員を兼任する事になりついに軍指導部まで掌握し、金日成キム・イルソン以外は誰も触れる事が出来ない序列2位の権力者となりました。
 
1991年朝鮮人民軍最高司令官になったのに続き、1992年にはオジヌ呉振宇と共に元帥階級を受け、最終的に軍統帥権まで完全に掌握する事になりました。
金日成キム・イルソンも彼を経なくてはどのような報告も受ける事が出来なくなったのです。
 

 

彼の統治スタイルは一言で「密室」「黒衣(くろご)」「猜疑心から出発した忠誠心の確認」です。
彼ほどゴシップが絶えないリーダーも珍しいですが、「毎夜のパーティー」「喜び組」「神秘化」が彼の権力維持の武器になりました。
 
そして華麗な女性遍歴も彼を語る時欠かせません。
『英雄色を好む』の言葉を地で行く数々のエピソードが語られていますが、特にキムジョンウン金正恩の生母で有る在日帰国同胞のコ・ヨンフィの存在が長らく話題を呼びました。
 
彼は数百万人の餓死者が出たと言われる未曾有の「苦難の行軍」を先軍政治で乗り切り、解放後初の南北首脳会談を成功させ、朝鮮式改革解放を開始させました。
しかし朝・日首脳会談で拉致が有った事を認め、謝罪と生存者を返す事業で躓いてしまいました。
 

 

2008年に脳卒中で倒れ、その3年後2011年12月に69歳の若さで逝去しました。
共和国の公式発表によると、専用列車に乗って現地指導に向かって行く途中、「人民のために昼夜を問わず業務をして過労による重症の急性心筋梗塞と心臓麻痺」で亡くなったと有ります。
 
彼の逝去により共和国は前代未聞の3代世襲の道を辿る事になりました。
 

 

彼は2代目として初代と正反対の統治スタイルを貫きましたが、3代目キム・ジョンウンが先祖返りの様に初代の統治スタイルそのままなぞって居る事がしばし話題に上る程で、権力継承に於いて世界的に稀に見る成功例として語り継がれる事でしょう。
 
<参考文献>
한국민족문화대사전 
나무위키

 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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