<ドラマ 第一共和国より>

 

6章 朝鮮の人物-75 現代11
呂運亨リョ・ウンヒョン:ウニョン
 
 
 
朝鮮の現代史を語る上でこの人も欠かせません。
解放後いち早く『朝鮮人民共和国』を宣布し建国準備同盟(建準コンジュン)を率いた我が国を代表する政治家です。
 
左右合作運動に力を尽くし、まるで南北のあいだに居る私の様だと以前申しました(失礼)。
間に入る苦労は計り知れないモノが有り、彼の精神世界を少しでも覗いて見たいです。
 
 
彼は1886年に政界から疎外された両班家で生まれました。
母が太陽をチマ(スカート)に抱える胎夢(妊娠中に見る夢)を見たとして号をモンヤン(夢陽)としました。
 
彼が生まれる前に3人の子供が早逝し、母親が33歳になって生まれたので家庭内の愛情をを独り占めしました。
目鼻立ちがはっきりしており、思慮深く祖父は彼を見てワンジェ(王材:王になる人材)と言ったそうです。
 
家門が東学組織と深い関わりが有り農民戦争の際は塁が及ばない様に忠清北道の丹陽の片田舎に引っ越して来ました。
 
父親は権威主義者、両班で有る事を傘に着る人物で、彼は父を反面教師にします。
母親も気が強く負けず嫌いで『ホランマニム(虎奥様)』と呼ばれたそうです。
 

<国債補償運動>

 

その頃は科挙制度も無く、立身出世するには新教育を受ける必要が有ったので彼も1900年に新教育の殿堂で有った培材學堂に入学しますが中退し興化学校と通信院敷設の官立郵務学堂にて修学しました。
 
1907年京畿道陽平で国債補償運動の支会を設立・活動し、この頃改新教(プロテスタント)に入教します。
彼は敬虔なクリスチャンになりました。
 
1908年にアメリカ人宣教師クラーク(Clark.C. A)牧師の助手として働きながら畿湖学会に参加して評議員として活動しており、当時の啓蒙運動を主導したスンドン勝洞敎会を出入りしました。
 

<ドラマ ソウル1945>

 

1911年、江原道江陵でナムグンオク南宮檍の後援で運営された草堂義塾の教師になって青年教育に力を注ぎます。
ピョンヤンの長老派教会神学校にて2年学んだのち1914年中国南京の金陵クムリュン大學で英文学を専攻しました。
南京で活動しますが1917年に上海に活動舞台を移し、独立運動に身を投じました。
 
1918年に上海高麗民親睦会を組織し、同年新韓靑年党の創立を主導して総務幹事として活動します。
 
1919年、在日留学生の2・8独立宣言3・1運動に関与して、金奎植キムギュシクを上海に招聘してパリ講和会議朝鮮代表として参加させました。
 
 
3.1運動の失敗後上海で大韓民国臨時政府(臨政)樹立の機運が盛り上がりましたが、彼は運動の方法として内部問題が持ち上がりやすい『政府』設立を反対し「党」設立の方式を主張します。
 
他にも「大韓」という滅びた国号の使用に反対し、国を駄目にした皇室に対する優遇も反対しました。
 
しかし大勢が政府の樹立に傾くと多数決の原則によって政府の樹立に協力し、臨政設立時には政府の議政院、外務省次長に就任しています。
 
彼は特に外交に於いて自身の底力を遺憾なく発揮しました。
3.1運動の鎮圧で日本に対する国際世論が極めて悪くなると、日本の古賀拓殖局長官が呂運亨リョ・ウニョンを東京に招待して国賓として礼遇し、朝鮮併合を納得するように執拗に説得しました。
 
 
これは臨時政府の中心勢力である呂運亨を日本側に寝返りさせて臨政を分裂させる為の策略でした。
 
この時臨政では「行けば死ぬかもしれない、変節するか分からない」と心配しました。
 
しかしはその説得には乗らず、かえって古賀長官はその会話で呂運亨の気概と人柄に感心して別れの際には「呂運亨万歳!」を叫び彼を驚かせたと言います。
 
加えて、は陸軍大臣田中、朝鮮駐在軍司令官宇都宮太郎などに会って朝鮮独立の当為性を説得しました。
 そして東京ホテルに招待され朝鮮問題に対する立場を発表しましたが、併合の友情的な発言どころか多くの記者が集まった前で遠慮なく朝鮮独立の正当性を主張する爆弾発言をします。
 
この為、当時の日本内閣は彼を招待した責任を大きく問われる羽目になったとの事です。
 

<上海 臨政時代>

 

1921年、臨政首相の李東輝リ・ドンフィが、コミンテルン(国際共産党)が帝国主義の支配を受けている弱小民族を経済的にサポートしてくれるという事実を知って高麗共産党を結成しました。(上海派)
 
彼は高麗共産党に加入して金奎植キム・ギュシク、朴憲永パク・ホニョン、キムタンヤ金丹冶などとソ連で開催された共産党主催東方被圧迫民族大会にも参加しました。
 
旅行中に呂運亨はモンゴル横断とソ連訪問の旅行記を残し、これを後に朝鮮中央日報に寄稿しましたが、当時モンゴル、中央アジア、ソ連の民衆の状況を生き生きと写しており、貴重な史料として評価されて居ます。
モスクワに到着し、大会でレーニントロツキーに会って朝鮮独立運動の対談を行いボルシェビキの立場を確認しました。
 

<ドラマ ソウル1945 シング扮>

 

この時彼はトロツキーの演説に非常に感銘受け、レーニンとの会談で彼が表明した立場に非常に満足したと言います。
呂運亨は大会議長団の一人に選出されました。
 
所が、臨政は間もなく連統制、交通局が発覚し、国内との連絡が途絶え、資金調達が困難になって派閥間の対立が深刻化しました。
 
更に高麗共産党の資金横領事件などが持ち上がり、開催された国民代表会議で左翼勢力をはじめとする独立運動家たちが臨時政府から大挙離脱、
臨政『白凡日誌』金九キム・グが吐露した様に「家賃もまともに払えない弱小団体」に縮小してしまいました。
 
一方、彼は改革的性向を持った臨政の第2世代に属する人物であった上、政治党争に厭世感を感じて居たので臨時政府の活動ではなく他の活動を活発に行う事になります。
 
 
特に上海で結成された中国共産党の初期メンバーとの活発な交流をして孫文、毛沢東、ホーチミンに会う一方、国民党左派の指導者で中国共産党に友好的だった汪兆銘とも交流して居ます。
 
彼は中国の革命成功が朝鮮独立に大きな影響を与えると見て、自分が勤務する『タス通信社』に中国革命を促す寄稿を複数回出し、蒋介石に反対する運動も行いました。
 
その中で交流していた汪兆銘が逮捕され、共産党の資金事件などの一連の事件で独立運動の活動がうまく行かなくなると、彼は1927年中国復旦大学体育学科教授として就職します。
 
復旦大学南洋遠征サッカーチームを連れて東南アジアを歴訪し、帝国主義に対抗する闘争、民族解放を要求する活動などを行いましたが、1929年共同租界でサッカー大会観戦中、英国警察の協力を得た日本の警察によって逮捕され朝鮮に圧送されてしまいました。
 
中国の警察は呂運亨リョ・ウニョンが無罪であると主張し刑務所入りすべきではないと主張しましたが、英国の警察と日本の警察は中国の警察の要請を無視して朝鮮に圧送しました。
 

<ドラマ 第一共和国>

 

彼が逮捕されたと言う知らせが朝鮮に伝えられると人々はこのニュースの信憑性を疑いました。
これは、以前にも呂運亨逮捕説が誤報で新聞に出たからです。
 
しかし逮捕が事実と確認されると、朝鮮独立運動の巨頭が逮捕されたというニュースが大々的に報道され、彼の名前がより広く知られるようになりました。
 
彼の到着は騒動になり「呂運亨リョ・ウニョン事件」と名付けられた程でした。
 
彼の刑量は最終的に3年の懲役と確定され西大門刑務所に服役しました。
 
釈放後、彼は中央日報社長に就任し、新聞の名前を「朝鮮中央日報」に変えました。
彼の活躍で廃刊直前だった中央日報朝鮮日報、東亜日報と競う3大日刊紙となります。
 

<日章旗抹消事件>

 

しかし、1936年の日章旗抹消事件で休刊になり経営陣の内部軋轢による内紛を収拾できず、1937年11月最終的に新聞社は廃刊になりました。
 
中央日報が廃刊され仕事が無くなったは結婚式の祝辞や各種イベント講演で過ごしながら1942年には日本にも渡り、留学中の朝鮮人留学生たちに会い祖国の独立の必然性を力説して希望を与え、彼らの留学資金を与えたりもしました。
 
一方、日本の高官級官僚とも会って中国での日本軍を急いで撤退する事を要求し、日本の極右知識人と時局評論もしました。
 
1942年12月21日、朝鮮総督小磯との会談を終えて帰国する途中下関で日本の警察に逮捕され、また獄中生活をするようになりまし
当時、日本は呂運亨を傷つけると波乱が起きる事を懸念して極秘で拷問しましたが1943年7月釈放しました。
 
 
釈放後、神経衰弱に悩まされ入院しますが日本は転向を強要、見かねた家族が自分の代わり転向書に判を押すのを黙認してしまい、これは後日解放後政敵から批判を受ける口実になります。
 
その後も自宅軟禁を受け、総督府から継続的な監視を受ける様になりますが、彼はその中でも解放の信念を捨てず解放後の朝鮮民族の自力による組織を構想して1944年8月10日、側近と祖国建設に志の有る若者たちを集め地下組織『朝鮮建国同盟』を作りました。
 
1945年4月には米国のサンフランシスコ会談と関連し、中国華北地域で活動する朝鮮義勇軍を傘下に置いた独立運動団体「朝鮮独立同盟」との具体的な連携のために代表を派遣して、5月には大韓民国臨時政府と接触するために代理を北京に派遣して連絡を試みるなど活動して居ます。
 
 
日本の降伏が既成事実になると総督府は降伏3日前頃から自分たちを含め朝鮮に居住している日本人の安全確保を講じ始めましたが、呂運亨を交渉のパートナーに決めました。
この時彼は朝鮮総督府に5つの要求をします。
 
❶全国的に政治犯と経済犯を即時釈放すること
❷ソウルの3ヶ月分の食糧を確保すること
❸治安維持と建国のための政治運動について干渉しないこと
❹学生や青年を組織訓練する事について干渉しないこと
❺労働者と農民を建国事業に動員する事について干渉しないこと
 
このように5つの要求事項を提出し、総督が最終的に承認しました。
 

<建国準備同盟>

 

その間運営して来た地下組織「建国同盟コングクトンメン」を具体化して解放2日ぶりに「朝鮮建国コングク準備チュンビ委員会」(建準コンジュン)を設立し、全国各地に建準支部を建設して治安を統率しました。
そして日本が敗退した時、報復犯罪や社会の混乱が起こる余地を未然に防止して社会を安定させました。
 
しかし、左右翼を結集する統一戦線機構として組織された当初の性格とは違って宋鎭禹ソン・ジンウなど東亜日報系は参加せず、安在鴻アン・ジェホンなどの朝鮮日報系/新幹会右派勢力は、社会主義勢力が建準の要職を掌握して居ると不満を抱いて建準を改造しようと提案したもののいずれも失敗に終わり建準を離脱しました。
また建準左派は、その後朴憲永共産党に徐々に主導権を握られて行きます。
 
呂運亨リョ・ウニョンは38度戦を境界にアメリカが軍政を敷く事が分かると軍政庁を相手に交渉力を得る為、建準を母胎に一種の過渡政府の「朝鮮人民共和国」(人共インゴン)を宣言し、地方組織を人民委員会に改編しました。
 
歴史篇でも述べましたが、北朝鮮金日成キム・イルソンを首班に組織された「北朝鮮人民委員会」はこの人共の組織を母体にして居ます。
 

<1945年8月15日歓呼を受ける呂運亨>

 

しかし米軍は軍政実施後、人共の存在を否定し交渉を拒否しました。
軍政当局は呂運亨を不純な左翼政治家、更には親日派として認識していた模様です。
更に、地方の建準支部(人民委員会)は多くの数の治安維持と社会主義者の連帯で組織された一種の左右合作的な統一戦線でしたが、人民委員会への改編を前後して左派に掌握されてしまいました。
 
朴憲永の回で述べましたが、朴憲永は呂運亨がソウルを留守中、人共の政府組閣を右派の承諾を受けず勝手に発表し右翼の批判を受けました。
これにより呂運亨の政治的権威は大きく失墜します。
 
彼は朴憲永の様な過激な共産主義者と言うよりは柔軟な社会民主主義に近かったと言えます。
 
 
9月に米軍政が実施されてから状況はより不利に動きました。
朝鮮半島に上陸した米軍は朝鮮人の政治活動を認めず米軍政を唯一の合法政府と宣言しました。
この為人民共和国人民委員会は地下で活動する事になり、金九ら臨政の要因も個人の資格で帰国します。
 
また米軍政関係者は人民委員会を共産主義団体だとして全て解体する様に指示し、人民委員会が自主的に治安を担当した治安維持に関する件で、日帝時代の警察を80%以上復帰させる暴挙を行いました。
 
これは呂運亨の政治的地位に大きな打撃を与え、後にが多くのテロ行為に遭っても保護されなくなる原因の一つになりました。
 
しかし、それでも彼は大衆に人気の政治家でした。
その頃はまだ左右の対立が表面に表われていない状態だったので、彼は努力さえすればソ米両軍が朝鮮半島を退いて38度線という地理的分断が解消され、統一政府が樹立されると見ました。
 

<ドラマ 第一共和国>

 

1945年10月は自分の政治的影響力を回復し、政派間の対立を解消する為に韓国民主党、朝鮮共産党などと左右陣営合作会議を開催して人共代表として会議に出席、民族統合のためには人共も解散すると主導しました。
その結果「各政党行動統一委員会」が設立されます。
 
しかし、10月16日李承晩リ・スンマンの帰国で政局の関心が彼に注がれ、10月23日各政党の「行動統一委員会」「独立促成中央協議会(促成中協)」に切り替わり、主導権が李承晩に移りました。
やがて李承晩の偏向的な態度に反発して左派勢力が促成中協を大挙離脱します。
呂運亨も促成中協を脱退しました。
 
 
独自勢力の必要性を悟ったは11月12日朝鮮人民党を結成し、土地改革と重要産業国有化、親日残滓清算を主張するなど、資本主義のもとに計画経済を導入した社会民主主義を志向しました。
 
この為彼は進歩勢力の連合戦線、人民戦線結成を主張、具体的には、人共中央人民委員会と臨政の組み合わせを提案しました。
しかし、大衆的な人気を受けていたを右翼はもちろん朴憲永など左翼も警戒し、金九など臨政勢力も社会主義的性向を持っていたを警戒しましました。
 
 
呂運亨の統合提案に臨政は、臨政の法統と主導権を要求、左翼には2〜3個の新設部門授与だけを提案し金九との合弁は失敗に終わりました。
 
その年の12月にモスクワ3相会議の結果に接し、金九は激怒して信託統治決死反対を叫んで信託統治反対運動を始めます。
 
朴憲永モスクワ3相会議の決定を支持する宣言をして、独自路線を主張し始めました。
この時から朝鮮は右翼の信託統治反対と左翼の信託統治賛成に分かれて激しく対立する事になります。
 
 
信託統治の決定について穏健派と中堅派は統一臨時政府の項目に前向きな姿勢を示しましたが、李承晩、金九をはじめ強硬な反共、民族主義右派勢力は烈火の如く反対、左右対立は手に負えなく広がって行きました
 
彼は信託統治による左右対立を解消する為、人民党朝鮮共産党、韓民党、国民党の4党代表会談を手配、この席で3相会議の原則支持、合理的な信託統治問題の解決などの内容を盛り込んだ4党コミュニケが発表されました。
 
しかし韓民党、国民党などが次々と合意を覆し失敗に終わりました。
1946年7月25日呂運亨金奎植と連帯し、米軍政の暗黙の支持の元、左右合作運動を行います。
左右合作委員会を組織化し、外形上朝鮮共産党と韓民党など左右の両極端まですべて包容する事に成功しました。
しかし、またもや左右両方の集中砲火を受けます。
 
 
左右合作委員会の支持で南朝鮮過渡立法議員選出が行われましたが、左右合作委員会は立法機関の設立を支持する条件として推薦権だけでなく政治犯の釈放、行政機構改革、親日派の粛清などを要求しました。
 
しかし、当初左右合作を支持した米軍政は左右合作委員会を裏切り、左右合作委員会が掲げた条件を無視しました。
 
結局1946年12月の立法議員開院で左右合作委員会は分裂しました。
共和国ではではこれを「米帝の劇に巻き込まれた」と批判して居ます。
 
 
一方、彼呂運亨は左右合作運動のスムーズな進展の為、で進んで居た左翼合党運動に倣い人民党、新民党、共産党の3党合党を提案して進めました。
 
そしていよいよ南朝鮮労働党(南労党)が結成されましたが、彼が主導権を握る事は有りませんでした。
 
早くから呂運亨は北を秘密裏に訪問し、金日成などと左右の協力方案を議論して来ました。
北の金日成に会いに危険を冒して秘密裡に5回北を訪問するなど力を尽くして居ます。
結局彼は12月4日、事実上殻だけ残った南労党を放棄し、民戦議長辞任と政界引退を宣言しました。
 
政界引退宣言後呂運亨は故郷楊平に隠居しました。
しかし、ソ米共同委員会が再開される兆しを見せ、支持勢力を中心にの復帰を要求する声が大きくなりました。
金日成の復帰を後援しました。
 
 
彼は1947年3月にインドで開催される汎アジア会議南朝鮮代表に任命され、本格的に政治活動を再開します。
 
5月24日、南朝鮮新民党の支持勢力、朝鮮共産党内の反朴憲永勢力と勤労人民党(勤民党)を結成し、中間派結束のために所謂「時局対策協議会」を結成しました。
 
しかし勤民党結党2カ月後、彼は暗殺されてしまいました。
解放前にも1925年12月呂運亨殴打事件などテロを受けて居ます。
解放後は右翼陣営よりのテロ1位となりました。
彼は2年間に合計なんと12回のもテロを受けて居ます。
1947年7月19日IOCの登録祝賀記念として東大門運動場で南朝鮮と英国の親善サッカーの試合が行われた日、当時の朝鮮体育会長兼朝鮮オリンピック委員長だった呂運亨は試合見学前に服を着替えに家に行きました。
 
鐘路区恵化洞ロータリーの交番でトラック1台が彼の乗ったリムジンを遮りました。
呂運亨のリムジンが止まった間、背後を知ることができない右翼青年韓智根(本名李弼炯)がバンパーに乗って2発の銃弾を呂運亨に撃ち弾丸は彼の心臓と腹を貫通しました。
 
 
当時の隣に座っていた側近の証言によると彼が死ぬ前に最後に吐き出した言葉は「祖国…」そして「朝鮮…」だったそうです。
笑顔を浮かべた顔で死んだと言います。
 
彼は徹頭徹尾左右合作を目指し戦いました。
彼は左右合作運動破綻時、政治家の非妥協的な態度に失望して「私たちのような指導者が居なかったら朝鮮の統一は既になされて居ただろう。
朝鮮の指導者は、1次試験で皆、落第だ」
と失望声明を発表して居ます。
彼の叫びは今も有効です。
 

<キムイルソンと遺族>

 

<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
위키백과
 

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<音楽ドラマ 赤い花>