<金斗漢を描く伝説のドラマ 野人時代>

 

章 朝鮮の人物-72 現代8
朴憲永パクホニョンと朝鮮共産党❶
 
 
以前ホンボムド将軍の欄で1910年代・1920年代の国外での独立運動を見ましたが、今回は朝鮮国内での動きを見たいと思います。
この時期を見る上でシンボリックな存在は何と言ってもパクホニョン朴憲永です。
 
『南からも北からも見捨てられた男』の異名を取る彼の再評価ほどコリアの現代史で最重要な課題は少ないと思われます。
朝鮮のレーニンと呼ばれた朴憲永ですが、1990年代以前にウリハッキョ(朝鮮学校)で学んだ私の様な平凡な(?)ウリハッキョ出身の一市民に取っては、韓国でのそれを遥かに上回るアレルギーが有ります。
 
 
それは幼い頃から「洗脳教育」と呼べる程に繰り返し繰り返し学んだ「金日成革命歴史」で必ず出て来る悪役「宗派主義者」の筆頭で、「アメリカのスパイ」として処断されたからです。
 
アメリカと敵対する現在の共和国の状況下で「アメリカのスパイ」と言う響き位インパクトが有るキャッチフレーズは有りません。
知らずにそのイメージが刷り込まれダーティーな存在として固まってしまって居るのです。
 
しかし、現在韓国でも彼の日帝期の活動を認めるべきとの機運が盛り上がっており、共和国での権力闘争に敗れた彼に解放後の全ての責任を負い被せる事は得策では無いと思われます。
 
共和国での彼の再評価は多分、中国での鄧小平執権の様な変革の無い限り起こる事は無いでしょう。
そう言う意味で隘路は付き纏いますが、歴史の『行間』を読みながら述べたいと思います。
 
まずは解放前です。
 

<ドラマの朴憲永>

 

3.1運動後、独立運動家や社会活動家の知識人青年、日本の留学生の中から、日本からの民族解放も重要だがそれよりも階級解放闘争が重要な課題だとして共産主義、社会主義思想を信奉する動きが台頭しました。
 
ロシアでの社会主義革命は当時の新しい変革であり、『レーニンの民族自決論』が朝鮮に於ける理想的な革命理論として受け入れられたからです。
 
朝鮮国内での共産主義運動は「治安維持法」により数回弾圧を受けて解体と再結成を繰り返しましたが、
金在鳳キムジェボンら火曜派を中心とした1次朝鮮共産党
姜達永カンダルヨンを中心とした2次朝鮮共産党
金錣洙キムチョルスらML派を中心とした3次朝鮮共産党
車今奉チャグムボンらソウル派を中心とした4次朝鮮共産党に分けられます。
 

<キムジェボン金在鳳>

 

思想と背景の違いから火曜派、北風派、ソウル派、ML派などいくつかの派閥に分かれ、これらの対立が思った以上に酷かったと言えます。
 
植民地だった朝鮮の共産主義運動はまず海外から始まりました。
1918年6月、李東輝リドンフィ・朴鎮淳パクジンスンらがハバロフスクで韓人社会党を結成、1920年のコミンテルン第2回大会にて韓人社会党から出席した朴鎮淳が民族・植民地問題委員会の討論に加わり、執行委員にも選ばれています。
 
李東輝大韓民国臨時政府(臨政:1919年結成)に参加した事から韓人社会党は拠点を上海に移し1921年に「高麗共産党」を称しました。
彼らのグループは「上海派」と呼ばれます。
 
これと前後して金哲勲キムチョルフン・呉夏黙オハモクらがイルクーツクでロシア共産党韓国族部をを結成、1921年に同じく「高麗共産党」を称しました。
彼らのグループは「イルクーツク派」と呼ばれます。
イルクーツク派には朴憲永・金在鳳らが属して居ました。
両派は路線の問題で激しく対立し、衝突にまで発展しました(自由市惨変)。
 

<レーニンとコミンテルン>

 

1922年1月からモスクワで開かれた極東諸民族会議(極東勤労者大会)に朝鮮人代表団が参加し、同大会参加者148人のうちの約3分の1(54人)を朝鮮人代表団が占めて居ます。
 
社会主義系の各派からも李東輝・朴鎮淳・朴憲永・金丹冶などが参加しましたが、この時朝鮮から参加したこのメンバーがのちの朝鮮共産党結成の中心メンバーとなります。
 
1920年代、朝鮮国内でも「ソウル青年会」「新思想研究会」など共産主義と社会主義を研究する勉強会や読書会が雨後の筍の様に生まれました。
このような団体は、国内の共産主義思想の伝播において重要な役割をし、国外にあった上海派イルクーツク派とも関係を結び成長しました。
 
そしてこれら団体のメンバーが後に共産主義運動の主要な派閥内で活動する事になりますが、彼らも共産主義運動の主導権を持って互いに対立しました。
国内外でのこうした派閥間の対立は共産党の結成を妨げる大きな要因となりました。
 
それでも少しずつ国内で共産党の創党のための活動が行われ、1924年には、ロシア韓国人2世たちが朝鮮労働党を結成、火曜派北風派などでも共産党結成のための協力を開始し始めました。
中でも金在鳳火曜派が最も積極的に結党準備を急ぎました。
 

< チョボンアム曺奉岩>

 

1925年4月17日、火曜派北風派の主要人物19人が中国料理店で集まって会合を持ちますが、朴憲永・金在鳳・金若水・金丹冶・曺奉岩チョボンアム・金燦キムチャンなどの有名な共産主義活動家が集まったこの会合で朝鮮共産党が正式に設立されます。
金在鳳が党責任秘書として選出され、金燦曺奉岩らが委員に選出されました。
中央執行委員会と中央検査委員会は各派閥からまんべんなく選出されました。
翌日には朴憲永の家で共産主義者20人が集まり、朝鮮共産党傘下団体である高麗共産青年会を組織して居ます。
 
朝鮮の共産主義者は当初から二つの任務を遂行しなければなりませんでした。
「共産主義運動」「朝鮮共産党の正式認定の為の活動」です。
 

<コミンテルン>

 

朝鮮共産党の主導で「全朝鮮民衆運動家大会」が開かれ、日帝の弾圧と会場の閉鎖にも関わらず、
1000人余りで行進しました。
一方、青年20人をソ連の東方勤労者共産大学に留学を送り、全国各地に青年を中心に党細胞を組織しました。
 
この様な活動と共に共産党の「正式認定」を得る活動に奔走しました。
 
何故ならコミンテルンは派閥争いにより党綱領を採択出来なかった朝鮮共産党を「党綱領がない」との理由で、完全には認めなかったからです。
 

<朝鮮共産党メンバー>

 

コミンテルンから正式に朝鮮共産党を認めてもらおうと曺奉岩らを密使としてモスクワに派遣しました。
コミンテルンは朝鮮共産党を完全には認めなかったものの、朝鮮共産党中央委員会を「統一党の基地」として認定、実質的に認定したと言えます。
 
しかし、この様な同床異夢の不安定な状態だった為、時間が経つにつれ朝鮮共産党は揺れ始めました。
 
派閥間の対立、そして日本の弾圧が主原因です。
北風波火曜派が主導した朝鮮共産党に不満を持ち、朝鮮共産党結党前に戻る事を望みました。
ソウル派は自分たちを抜いて結成された朝鮮共産党を否定しようとしました。
 
朝鮮共産党は1926年春にコミンテルンから正式に承認を受け、正式な共産党(コミンテルン支部)と認定されましたが、直前の1925年11月に新義州でほんの弾みからトラブルを起こし、共青の事業報告書が官憲に没収された事から党の活動が露見し(新義州事件)危機に陥ります。
 
朴憲永・金在鳳・金若水キムヤクスら主要な党員・幹部らの一斉摘発・検挙が行われ、検挙を逃れた幹部も国外に亡命、これにより組織は大打撃を受けました(第1次朝鮮共産党事件)
 

<事件を報じる新聞>

 

その後も朝鮮共産党は総督府当局、警察によって弾圧を受けます。
 
そこには1926年朝鮮王朝の最後の皇帝純宗の崩御を受け、第2の3.1独立運動を狙った「6.10万歳運動」とその弾圧も含まれます。
 
最終的には第4次朝鮮共産党検挙が行われた1928年に朝鮮共産党は解散しました。
 
第4次共産党検挙事件の後には、実質的に中央委員会が崩壊、コミンテルンは有名な『一国一党原則』を勧告して朝鮮共産党をコミンテルンから除名、海外の朝鮮共産主義者たちは各国の共産党に入党する事や国内の共産主義者たちには真なる共産党の再建を促した為、党を再建しようとする公式の努力は中断されました。
 
しかし、コミンテルンを背景に1940年代には逮捕を免れた李觀述リグァンスル、満期出所した李鉉相リヒョンサン、国内に帰還した朴憲永らを主軸に京城コムグループを結成、解放後朝鮮共産党再建の主体となります。
 
 
朴憲永は1900年、忠清南道礼山郡で両班家の庶子として生まれました。
彼の家は没落した両班でしたが居酒屋や旅館業など大きく商売をし、経済的には豊かだった様です。
 
漢学を学びながら小説を読破した彼は洪吉童伝に興味を持ったと言います。
学業に優れ、京城第一高等普通学校に進学し、 YMCAで英語を学びながらアメリカ留学を夢見るも挫折、1919年2月に卒業して3.1運動を経験し、火曜派で活動して上海に行きました。
 
当時高麗共産党は前述の通り2分して居ましたが
朴憲永は1921年にイルクーツク高麗共産党に登録して熱心な活動をしました。
 

< 極東被圧迫民族大会>

 

1922年の極東被圧迫民族大会に参加後、国内に潜入して朝鮮共産党を組織せよとのコミンテルンの指示を実践する為に国内に入りますが日帝に逮捕され獄中生活を送りました。
 
1924年に出獄後、東亜日報の記者をしながら火曜派を中心とした朝鮮共産党の結成に参加し、傘下組織である高麗共産青年会の責任秘書として選出され、記者生活をしながら密かに地下活動をしました。
 
先述の1925年の新義州事件により、第1次朝鮮共産党検挙事件が勃発、彼が送ろうとした報告書が日本に発覚し、他の幹部と一緒に逮捕され収監されますが獄中で酷く心身を病みました。
 
結局1927年11月に精神病により釈放されましたが、精神科医は回復は不可能という診断を下しました。
 
出監後も精神病に苦しみましたが、妻と母の保護によりある程度回復。
そんな中病気療養中の1927年の冬、妻と一緒にソ連のウラジオストクに脱出、そして翌年には臨月の妻を連れてシベリア横断鉄道に乗りモスクワに行きます。
妻は列車内で出産、当時センセーショナルな話題になりました。
 
 
1928年モスクワに到着した後、留学中だった共産主義者金丹冶の推薦で国際レーニン大学を通いました。
1929年2月ソ連共産党に入党、そして1929年の初めに国際レーニン大学を卒業した後、苦学にて東方労働者大学2年の課程を1931年卒業して自分の共産主義理論を深化させます。
 
彼はコミンテルンから朝鮮の共産党を指導する様に指示を受けて4歳になった娘パクビビアンナを、当時ソ連を拠点に活動する各国の革命家たちの子供たちを養育していた施設スタソバ育児園に任せ1932年1月妻と一緒に上海に渡りました。
 
上海で活動中、尹奉吉の爆弾テロ事件が起こり上海の独立運動家への弾圧が高まると彼は日本警察の尾行に遭い捕らえられ国内に圧送されます。
 
6年の刑を言い渡されましたが、5年ぶりの1939年に仮釈放で出所、金三龍キムサムリョン、李觀述などと一緒に、既に準備を終えた地下組織『京城コムグループ』を発足させ「朝鮮共産党」再建を目標に地下で密かに共産主義、労働運動を行ないました。
 
朴憲永は京城コムグループのリーダー兼「コミュニスト」という機関紙を発刊する宣伝業務など引き受け出版物を回すなど密かに活動しました。
 
 
これを置いて共和国では「朴憲永が5年ぶりに釈放された事こそ日本に降伏して仲間を売り渡した代価」とし、「日帝と妥協した日和見主義者」と主張して居ます。
 
確かに同僚キムヒョンソン金炯善などが10年の刑を宣告されたのとは異なり、朴憲永が6年刑という短い刑期を受けそれすらも釈放が早まったのは日帝のスパイに転向したからだと主張するのには打って付けです。
しかしながら、その様な資料は未だ見つかっておりません。
 
そうする内に1941年京城コムグループが発覚し検挙騒ぎになった為、朴憲永は全羅南道に逃避し、その地域の共産主義者たちと連絡を取り合いました。
 
太平洋戦争期間は日帝の目を避けてキムソンサムという偽名で便所掃除、レンガ作業員、工場労働者等あらゆる職種を転々としながら、隠れていたと言います。
 
その一方で全羅南道の京城コムグループのメンバーたちとも秘密の活動を続けており、ソ連の党細胞とも秘密交信を交えながら機関紙発行などの活動も密かに行いました。
 
 
以上の様な経過から、国内朝鮮共産党の指導者たちが数回にわたる検挙と弾圧、拷問で次々と死亡、転向する中で朴憲永は自然に朝鮮共産党再建準備組織のリーダーに格上げされました。
実際、彼は祖国光復後いち早く朝鮮共産党を再建して居ますが、この京城コムグループが主体でした。
 
8月15日の光復ニュースを知ると彼は「より良い生活の為にここを離れる」と手紙を残してソウルに上京します。
いよいよ彼が表舞台に登場する日が来ました。
それは取りも直さず、我が国の運命を分ける波乱の幕開けでした。
 
次回解放後に続きます。

 

↓↓彼の解放後の記事はコチラ↓↓↓

 

<参考文献>
나무위키 
위키백과 
한국민족문화대사전
 
#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画