<ドラマ マイプリンセスの純宗>
 
6章 朝鮮の人物-63 近代14
純宗、英親王と李方子妃
 
 
 
朝鮮王朝の滅亡に際して最後の国王で大韓帝国の皇帝だったスンジョン純宗と皇族を外す訳には行きません。
 
純宗は1874年生まれ、明成皇后胎生の王の子どもたちの中で唯一早死にせず成長した嫡子でしたが、健康は非常に良く無かったと言います。
この為、高宗明成皇后が後継者である息子の健康に気を揉んで、明成皇后がシャーマニズムに国家予算を蕩尽する原因になりました。
 
 
さらに純宗は大人になった後、ロシア通訳官だった金鴻陸が高宗を毒殺しようとコーヒーにアヘンを入れた「高宗毒殺未遂事件」に巻き込まれ、良く無かった身体がさらに悪化しました。
 
高宗はその時、コーヒーの味がおかしいと感じてすぐに吐き出しましたが、純宗はアヘンを入れた事も分からずに多く服してしまい、血を吐きその場で気絶しました。
 
純宗は数日間血便を吐くなど大きく健康を害し、多くの歯が抜けて入れ歯で生活せねばならなくなりました。
 
 
この事件後、入れ歯により少し阿呆に見える容貌まで重なり、馬鹿になったと言う噂が全国に広まりました。
その結果、高宗の死後王国復興を唱える独立運動勢力がほぼ消える程に人気と信頼を失う事になりました。
 
しかし、唯一の嫡子だったせいか父王高宗は後継者を交替しませんでした。
また、上記のアヘンコーヒー事件の副作用からか純宗には直系の子孫が居ません。
 
 
1907年高宗が「ハーグ密使事件」でハーグに密使を派遣した事に怒った日本はこれを口実に高宗に退位を脅迫、強要しました。
 
権力を明け渡す事を異常なまでに嫌った高宗は、以前からこの位抵抗して居ればこんな事態にはならなかっただろうと言うくらい徹底的に抵抗します。
最終的に高宗は皇太子に国政の摂政を任せる詔勅を下しますが、日本はこれを利用して純宗の即位式を本人たち不在のまま挙行。
純宗はなし崩し的に李完用、ソンビョンジュン宋秉畯らの主導の下、皇帝の座に座る事になりました。
 
<映画 ラストプリンセス>
 
強制退位への民衆の怒りは凄まじく、李完用の家に火をつけ、親日大臣は家に入れない程と当時の新聞が報道して居ます。
 
1907年7月丁未7条約が締結されて立法権、官吏の任命権、警察権などが日本に強制的に移譲され、8月には大韓帝国の軍隊を協議なしに強制的に解散されましたが、彼は大韓帝国の国権を日本に奪われて行く様(さま)を只々呆然と見つめるしか有りませんでした。
 
純宗は即位した年に序列ですぐ下で既に成長した弟のカン堈を差し置いて、自分より23歳も若い2番目の弟英親王ウン垠を皇太子に冊封しました。
 
 
日本は英親王が皇太子に冊封されると留学の名目で英親王を強制的に日本に連れて行き、後述しますが日本の皇族梨本宮方子(李方子女史)と政略結婚させました。
 
純宗皇帝の即位翌年の1908年には東洋拓殖会社が設立され、日本の経済圏侵奪がますます加速されました。
 
各地で義兵運動が頻発し、愛国文化啓蒙運動も盛んに展開されましたが、日本の国権侵奪の野心を防ぐ事は出来ず、純宗は無力に国権を一つ二つ日本に引き渡し、最終的に1910年8月22日、彼が日本の天皇に合併を請願する方式で大韓帝国はその幕を閉じました。
 
純宗がこれを防ごうとどれだけ真剣に考え抵抗したかは知る事が出来ません。
 
 
元々日韓併合条約覚書には、日本の天皇と純宗の署名と御璽の捺印が必要な「詔勅」を下す事になって居ましたが、御璽だけ押された勅諭が下りたのみという点を挙げ、純宗が署名を拒否した為、仕方なく勅諭にしたのでは?という研究もあります。
これが彼のせめてもの抵抗だったのでしょうか。
 
その後昌徳宮に住み、日本の皇族より低く日本の華族より高い李王の職位を受け昌德宮李王という称号を受けました。
 
昌徳宮に起居しビリヤードを打つ事を楽しみにしたと言います。
 
結局1926年4月52歳で崩御し、純宗の国葬を機会に第2の3.1独立運動を試みた6.10万歳運動が起こるキッカケになりました。
 
李王の地位はヨンチンワン英親王に引き継がれます。
彼、英親王ウン垠は1897年生まれ、母親である厳妃の宮殿での影響力が大きかったせいかとても大事に育てられました。
そして純宗即位と共に皇太子に冊封されました。
 
 
純宗の弟だったので皇太子で無く皇太弟がより正確でしたが、高宗の意思により敢えて皇太子に冊封されました。
 
その年日本に連れて行かれ和風教育を徹底的に受け、日本の傍系皇族一族の娘で有る
梨本宮方子(李方子女史)と政略結婚しました。
 
英親王には婚約者が既に居たものの強制的に破談させられました。
それでも李方子女史英親王の仲は良かったと言います。
 
日本に人質として取られた物の、朝鮮李王家の首長で日本皇族に準ずる待遇を受けた彼らの生活自体は裕福でした。
彼は現役日本帝国陸軍中将でしたが
公式の特権階層的な王公族だったので戦時に於いても安全な後方職務でした。
 
しかし、彼が実際に最も苦しんだのは、肉体的苦痛よりも故郷への郷愁とひどい孤独でした。
 
 
この様な逸話も有ります。
ある日、李方子女史が庭石に使用される白い小石を部屋で発見し聞くと、彼は幼い頃の故郷がとても懐かしく朝鮮に昌徳宮楽善斎の小石を送って欲しいと手紙を送り、日本に来る人から貰ったとの事で、懐かしさが込み上げる時は小石を見続けて触れて居たとの事です。
 
高宗はもちろん母厳妃の臨終も見られず、純宗の死後、李王職を承継してやっと宗廟に短い期間立ち寄る事が可能でした。
 
日本で過ごしていた異母妹のトクへオンジュ徳恵翁主が統合失調症で意思表現が出来ず、兄として保護者になって宗武志との離婚を許しましたが、自分の生活が厳しかった時代にも精神病院にお金を出すなど、兄として妹を熱心に見守りました。
 
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1945年日本が無条件降伏をし、日本に住んでいた朝鮮人は、正式に国籍がない無国籍の在日朝鮮人となり、以後GHQの措置で李王職が消え平民に強制降格させられました。

韓国は愛しい故国でしたが、その故国は彼を冷遇しました。
 
韓国では親日皇族とし憎悪する人もかなり多く、李方子の回顧録「歳月よ、王朝よ」によると、英親王も罪悪感から抜け出せないまま苦しんだそうです。
 
英親王は1945年光復直後と1948年、2度も韓国に帰りたいと請願しましたが、米軍政と李承晩が必死に反対し帰国出来ませんでした。
 
李承晩は直系皇族が帰国すると、自分の血統がそれらに比べて劣ると言うコンプレックスの為に、即ち王子の帰国は本人の大統領職を脅かすと考えた節が有ります。
 
<映画ラストプリンセスより>
 
また李承晩自身が『独立運動家』だった為、独立の為の努力を殆どして居ない直系皇族たちへの反感も有ったとされます。
 
李承晩政府が帰国を拒否した表面的な理由は、英親王は日本の皇族になり日本国籍を取得した物と解釈したからでした。
 
彼らは平民降格以降、帰国も出来ず経済的にも苦しくなりますます孤独になりましたが、訪ねて来る人も彼らを利用しようとする人だけで、最終的には大きな詐欺に遭い財産も失って貧しく過ごしました。
 
彼は1958年に脳溢血が発症して倒れ、失語症で意思疎通に不都合が生じて居ます。
 
1961年軍事クーデターが起こると、朴正煕は李承晩とは異なり英親王に好意を示し、彼らは韓国国籍を回復、英親王は1963年11月昏睡状態のまま56年ぶりに帰国します。
 
 <ドラマ 虹を駆ける王妃より>
 
1年間の病床生活から退院した後、李方子女史と一緒にソウル市の一般住宅と昌徳宮ラクソンジェ楽善斎で国から支給される補助金を受けて生活しました。
 
しかし、自分と徳恵翁主の医療費が300万ウォン近く滞るなど貧しい生活をして、7年後の1970年5月死亡、享年72歳でした。
 
彼の妻で「韓国の母」と呼ばれた李方子女史は1901年日本の皇族梨本宮家に生まれて居ます。
幼い頃から積極的な性格だったそうです。
 
 
1916年8月の朝、梨本宮方子は何気なく手にした新聞に自分自身と旧大韓帝国最後の皇太子である李ウン垠と婚姻するという記事が掲載され驚きました。
その姿を母親は側で見て、申し訳ない思いに涙を流して居たと言います。
 
彼女は皇太子妃候補にまでなって居たそうで政略結婚を何度も辞退しますが、『鮮日結束の為』と諭す陛下の意を受け入れざるを得なかったと言います。
 
彼女は個人教師から朝鮮の歴史と文化の教育を受けました。
結婚式を4日前に控えた1919年1月21日高宗が急死して式は1年伸ばされましたが、彼らはしばし会う事により愛情を深められたそうです。
 
<映画ラストプリンセスより>
 
1921年8月第一王子李晋が誕生しました。
幸せが訪れそうだった彼らに不幸が襲います。
結婚報告に訪れた朝鮮から帰国する前日の朝、前の日まで健康だった7カ月の王子が謎の死を遂げたのです。
牛乳の誤飲が原因で、誰かが暗殺を狙ったのか今も不明です。
彼女は宮中の掟により王子の入棺も見られず、葬式にも参列出来ず哀しい思いをしました。
 
1923年9月1日に関東大地震が起こり、二人は瞬間的に家を飛び出して無事でした。
しかし、朝鮮人が井戸に爆薬を埋めたなどのデマで朝鮮人虐殺が起こり、数千人もの朝鮮人が日本人によって悲惨に虐殺されました。
 
 
日本人は不逞団捜索隊というものを作って、自分たちを守るという名分のもと自警団を組織して道端で朝鮮人狩りを行いましたが、事もあろうか日本政府は朝鮮人虐殺を黙認して煽りました。
英親王も朝鮮人で有る為、狙われるかも知れず危険を避けるために、二人は家を捨てて宮殿前のテントの中で1週間避難生活しました。
 
王子が死んで丁度10年後、1931年12月次男李グ玖が生まれ、事実上の一人息子として李王家世子となりました。
 
その後上記の通り戦後、皇籍を離脱した彼らは経済的に困窮しますが、1963年に至ってついに李方子女史も韓国国籍を取得し、夫英親王と共に韓国で暮らす事になります。
 
韓国では昌徳宮ラクソンジェに起居しながら水原の慈恵学校明惠學校の様な様々な障がい者学校を建てるなど、多くの社会奉仕活動を行い、
「韓国の母」と呼ばれました。
老後には螺鈿工作などを学び、自分で作ったアクセサリーなどを売って、労働奉仕して居ます。
 
 
彼女は徳恵翁主が亡くなった9日後の1989年4月享年88歳で逝去しました。
 
彼女の回顧録『歳月よ、王朝よ』が有名で、2006年に日本で「虹を架ける王妃」と言うドラマも制作されて居ます。
 
<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
 

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