第6章 朝鮮の人物-33 近世17
ホジュン許浚
 
 
 
壬辰倭乱期の人物最後としてホジュン許浚を取り上げます。
朝鮮では昔から「医聖」と呼ばれ尊敬を受けて来た人物です。
 
1980年代に韓国で巻き起こった小説「東医宝鑑」の空前のブームによって再照明され、小説を原作としたドラマの歴史的大ヒットにより史劇のみか韓国ドラマ史上に残る名作になった事で、朝鮮王朝史上忘れ得ぬ有名な人物となりました。
 
 
またそのドラマが韓国のみならず日本や世界各国で愛されましたが、それは取りも直さず波瀾万丈な彼の人生がフィクション並みにドラマチックだったせいだと言えるでしょう。
ドラマ上の彼の前半生は殆どフィクションですが、後半生はほぼ史実なのです。
 
この様に文章を書き出すとドラマのエピソードが眼に思い浮かび、感動の嵐が私の記憶を刺激します。
 
彼の本貫は陽川で、字(あざ)は淸源、号は龜巖クアムです。
ホジュンのリメイクドラマの題名も「クアム ホジュン」でした。
 
 
京畿道ヤンチョン県パルンリ波陵里で出生した事が知られて居ます。
父は龍泉府使を務めたホロン許碖で、母は側室だった両班家門のキム氏です。
 
許浚はホロンの次男でしたが族譜には庶子として表記されて居ます。
朝鮮王朝では서얼庶孼ソオル差別が存在しました。
庶子は良民の側室の子、孼子は賎民との子の事を指し、文科の科挙を受ける事が出来ないなど様々な差別を受けました。
 
 
ホジュンは庶子だった為中人とされ、中人が目指す医官の道を目指したと思われます。
小説「東医宝鑑」などでは彼が庶子で育った悲しみから父の側を離れ慶尚道の人リュイテに医学を学んだと有りますが、あくまでもフィクションです。
 
ドラマホジュンでは名優イスンジェが厳しくとも情の有る師匠役を絶妙に演じて居ました。
しかしリュイテという人は架空の人物であり、そもそも彼ホジュン雑科試験を受けた記録も無いそうです。
 
 
許浚がどこでどの様に医学を学んだのか記録が残っていないので知る由(よし)も有りません。
 
1569年に彼が内医院に推薦され、その後正3品の内医院チョン正と言う役職になったと言う記録が有る事から1569年には内医院に入った物と思われます。
 
他にも1575年から宣祖を診療する医員となり、1578年に内医院チョムジョン僉正に昇進、1587年には御医リャンイェスと共に宣祖を治療して虎皮を賜ったと言う記録が出て来ます。 
 
1590年には世子光海君の痘瘡を治療し1591年に堂上官に上ります。
壬辰倭乱が勃発すると宣祖の側を離れる事無く柳成龍、李元翼などと共に義州へ避難する王に随行しました。
 
1596年には光海君の天然痘を治し従2品を賜りました。
またこの時、宣祖が朝鮮の実情に合った医書編纂作業を命じますが、これが正に「トンイポガム東医宝鑑」編纂の始まりでした。
許浚をはじめ御医リャンイェス、リミョンウォン、キムウンタク、チョンイェナムなど5人が共同で東医宝鑑編纂作業を開始しました。
 
 
しかし丁酉再乱の勃発で1年で作業が中断、1601年宣祖は再びホジュン東医宝鑑を単独で編纂する様命じますが、より急がれる医療の本「諺解胎産集要」・「諺解救急方」・「諺解痘瘡集要」など3種を優先編纂しました。
 
1606年には楊平君に推戴され正1品輔國崇祿大夫に昇格しましたが、中人の医員に対し過度に高い位だと大臣たちが反発、しばらく保留にされました。
 
それもその筈、科挙の雑科及第者は正3品が最高とされる中でホジュン許浚は従1品に叙されており、正1品とは朝鮮王朝500年の間で唯一の事例だったからです。
 
この様に許浚のみ特例が適用されたのは何よりも宣祖の絶対的な信頼を得たからで、
在位中有能な臣下たちへ猜疑心を抱き、劣等感に苛(さいな)まれ苦しんだ(李舜臣の功績を削って元均を称賛する程メンタルがどん詰まりだった)宣祖の恒久的かつ絶対的な信頼を得たと言う事に外なりません。
 
 
当時も人々の間で許浚の出世は立志伝的なサクセスストーリーとして話題になりました。
ホジュンの物語が全国各地で伝わるきっかけとなり、関連した説話や伝説が人々に広く知られ、現在私たちが知る小説やドラマの素材が形成されたと言えるでしょう。
 
1608年宣祖が崩御し、御医だった許浚は責任を取り流刑されました。
実際朝鮮王朝で王が亡くなるとその責任を取り御医が形式的に流刑されすぐ釈放される事が慣例でした。
 
なので流刑は1609年には終わり、釈放された許浚光海君の御医となり寵愛を受けました。
 
許浚は1610年「東医宝鑑」の編纂を完了して国王光海君に捧げて居ます。
1596年宣祖に最初の王命を受けてから実に14年ぶりの事でした。
許浚はそれまで忙しい公務の為宣祖が崩御した時点でも「東医宝鑑」の編纂を終えられませんでしたが、宣祖崩御後の流刑により時間的余裕が出来た為、医書編纂に没頭、完成する事が出来たと言えます。
 
 
ちなみに戦乱直後で出版事情が悪かったので「東医宝鑑」は編纂完了後印刷公開されるまで3 年の歳月を要して居ます。
 
「トンイポガム東医宝鑑」は当時、朝鮮と中国のすべての医書を参考にした上で許浚の研究が加わり完成した、一種の医学百科事典です。
 
出版されるや否や朝鮮、清、日本でベストセラーとなりました。
清では延べ30回以上も重版され、使臣として行った人々が北京の書店で東医宝鑑が脅威的に売れている様子を記録に残す程でした。
日本でも計2回出版されて居ます。
 
「東医宝鑑」は前述した通り共同プロジェクトとして始まり、複数の者が王室や民間の幾多の医書を参考に選り抜き、自分たちの医学観と経験に基づき編纂作業を行いました。
 
 
それにも関わらず今日この図書がホジュン許浚の単独作品として扱われる理由は、戦乱により編纂作業参加者が全て散り散りバラバラになり停止されてしまった作業を、彼が一人最後まで責任を持って完了したからに他なりません。
 
なにしろ中断され失敗に終わる事が明らかだったプロジェクトが彼によって無事完成されたと言う事自体彼の功労で、ホジュン許浚の本と言っても無理が無いでしょう。
 
許浚はその後も様々な医書編纂に尽力しましたが、これは壬辰倭乱以後疲弊した人々の為医学者として自分が出来る事をしようと心を決めた為と思われます。
 
 
そして1615年10月享年76歳で亡くなりました。
 
許浚は御医を務めながら内医院の医学書執筆を引き受けました。
彼が著した本は8冊有り大きく4部類に大別されます。
 
1.まず総合臨床の書で「東医宝鑑」
 
2.次に日常生活に緊要なハングルの翻訳付き医書で「諺解胎産集要」「諺解救急方」「諺解痘瘡集要 」など。
これらの本はそれぞれ救急対処、天然痘の医学的対応、家庭常備薬的なガイドラインです。
 
3.第三に感染症専門書「新纂辟溫方」「辟疫神方」など感染病対策書
 
4.第四に学習用薬教材「纂圖方論脈訣集成」で、この本は典醫監の科挙の試験教材の校正本です。
 
これらの中で最も注目すべき本はもちろん「トンイポガム東医宝鑑」です。
 
この本は王命により1596年に開始され、14年後の1610年(光海君2)に完成、1613年に出版されました。
 
 
1608年(宣祖41)ホジュン許浚は流刑に遭い、研究に専念する時間を得るやその地で短時間に執筆やり遂げました。
 
彼は「養生」思想を中心に中国医学の理論と処方の乱脈ぶりを正し、郷薬(朝鮮古来の薬剤)使用の利点を最大限に生かし、最小限の薬の分量で最大限の医学的効果を得る為に力を尽くしました。
高価な薬剤では無く、地元で安価に得られる薬剤を使用する事で、民衆が楽に病を治す事が出来る画期となったと言う事に彼の偉大さが現れて居ます。
 
 
壬辰倭乱で疲弊した朝鮮社会の回復の一環として、画期的な医学を提供したという側面も無視出来ません。
 
世界医学史の観点から見ると、猩紅(しょうこう)熱への鋭い観察と合理的な推論によりこの病気が未知の病気で、はしかをはじめとする同様の疾患と区別される病気で有る事を明らかにした意味で意義は大きいと言えます。
 
ホジュン許浚朝鮮医学、東アジアの医学、世界の医学に大きく貢献しており、朝鮮医学史上の独歩的な存在で有る「東医学」すなわち「朝鮮医学」の伝統を立てたと言えます。
 
 
特に「東医宝鑑」は当代最高の医図書として朝鮮医学の発生発展を可能にし、医学普及の促進剤となリました。
 
先だって延べた様に20世紀後半以降、韓国でホジュン許浚は小説とドラマで再照明され、大きな人気を集めました。
 
2009年には「東医宝鑑」ユネスコ世界記録遺産に登載され世界の人々と医学界にあまねく知られる様になりました。
 
 
李舜臣などと並び我が国を代表する偉人として これからも世界の人々の尊敬を受けて行く事でしょう。
 
<参考文献> 
한국민족문화대백과사전
나무위키 
조선시대 내의원 의관 호칭
 

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